モノには心がある

「道具寺道具村」のコンセプトを直接聴いたのは、確か2007年ぐらいの時でした。

 
そのとき、「道具とは道を具するものである」という言葉をききました。道を備えているものがすなわち道具であると、例えばハサミはモノを切る道具であるとともに、なにかの道を究める道具でもあり、生きてゆくための道具なのだ。ということなのだと心にメモしました。
モノづくりの頂点にいる人が残りの人生をかけて訴えかけてくる内容に胸がえぐられるような思いがしました、今思えばそのことがdefinesに行き着く発端のひとつだったのかもしれません。先人たちから、私たちが何を引き継ぎ、何を残してゆくか…。

 
『私は「モノには心がある」ということをずっと言っています。これは、いまもって大変な課題ですが、厳密に言えば、「モノに心が生まれるようになる」ということです。
最初は心はなかったけれど、生まれるようになってしまう。自動車でも、最初はなかったけれど、これだけ上等になると社会を変革します。その変革をする時に公害が出てくるわけです。その公害を起こすときの、その心根というのが、おそらくーおそらくとあえて言いますがー、自動車の心根がそういう表現をしている。つまり言葉がつかえないから、公害ということを通して、警告を発しているわけです。「気をつけなさい」と。
言葉があれば話ができますが、言葉がないから公害を出すことによって、相手をして感知せしめる。その意味で心が存在する、と言うわけです。
水もそうです。水を汚して、汚染された水を飲んで病気して、おなかを壊して初めて、水の大切さが分かるわけです。そこで水の意味が分かるというのは、水がそういう心を持っているから、あえてそうやって、われわれに分からせているわけです。
最初から心があるわけではない。それは後になってから出てくる。人間がモノや道具を作る。そうして、しばらくして心が生じてくる。やがてそれが、繁栄と破壊をもたらす。
例としては自動車が良い例です。確かに今の時代の繁栄は自動車が担っているのでしょうけれど、一方で、むしろ自動車そのものが、事故はもちろん環境汚染とか公害とかを引き起こしているわけです。あえて言うならば、その心をよく理解しないと、自動車という意味を理解しないと、われわれは自動車にやられてしまうわけです。
警告を発しているときに、モノに心があるとわかれば、そういった問題が起こったときに、実感が出てくるというか、自らのこととして考えることができる。環境汚染が起こっても、そういう気持ちをもたないと、気がつくのが遅れてくるのです。それは、心があると思えば、いろいろなものが明らかになってくる。その作り方も、対応の仕方も、処理の方法も、確かに解き明かすことができるはずです。
日本では昔から、針供養とか包丁供養とか、あるいは人形供養とか、ずっと行われてきました。いまでも行われています。それは、そういうことではないでしょうか。モノや道具に、心はあるということです。

 
ある日、広島の原爆の焼け野原で、モノというモノがひしゃげて壊れていた。
それは、人間のようには逃げられないというモノ自身の特性があります。ですから二輪車だとか、そのままひっくり返って焼けてしまう。けれど、形骸は壊れたまま残っている。普通ならそのまま残っていると、必ず人間が、ちゃんと直したらいいだろうと、おそらく思うはずなのです。
ところが、そういう非常事態ですから、もうあきらめてしまう。もう一度直せば使えると思うよりも先に、真っ直ぐに、元の元気な姿に戻ってほしいという感情が出てきたのでしょう。そういう感情が出てきたことで、ひしゃげて壊れたモノが「直してくれ、元にしてくれ」と叫んでいる、そのように聞こえたというような。これはごく自然のことだ、という思いです。そういう意味では、これは何も広島ばかりでなくて、戦災にあったどこの都市でもそうだったのでしょうけれど。
たまたま焼け野原の中に、ひょこっっと自転車の形骸でも、電車の形骸でも、浮き立っていると非常に目立ちます。まったくの焼け野原に、焼けただれた電車だけが残っている。他には何もない。そうすると、その存在感は強烈なものがあって、それこそ闇夜に紛れて、電車が話しかけてくるような。
空襲とか原爆というのは、都市を孤独にしますから。人は全部殺されて、孤独の中で、人口の存在があるというのは、人間の孤独を癒すのに格好のことでもあるわけです。ですから、私の場合でも、人間はいなくなったけれど、そういうモノたちがいるというのは、確固たるつながりができたということだと思います。
人が作ったものを懐かしく思うことがあるでしょう。孤独なジャングルの中で、たばこの吸い殻でも落ちていたら、どんなに励まされ、力づけられるか。人の作ったモノを懐かしく思う、そういうのに近いです。私の場合は、そうしいうものにたいして、関心が強かったのでしょう。それが、モノの世界とのコンタクトの始まりだと言っています。そこでコミュニケーションしていた。そのまま、どっぷり入ってしまったわけです。

 
「モノ」を見つめていくと、だんだんと「仏」に近づいていくのです。もちろん、そのままですぐにそうなるということではなくて、訓練や努力を重ねていくうちに、モノがしだいに仏の姿に近づいていく。そういうことが重要だというような意味です。
よく「諸行無常」などと言うでしょう。いくらどんなものを作っても、いつかは消えてなくなるわけですが、そういうものを見定めてやるというのと、見定めないでやるというのは、だいぶ違うはずです。
「モノづくり」の人間ならば、モノを作るときに、どうせなくなるんだから、いい加減なものをとは言わないでしょう。そうではなく、なくなるものだからこそ、しっかりと作っていくというような。人間の心の中に、そういうしっかりとした姿勢を作ることが大事です。
それには、私の場合ならば、禁欲、修道というようなことです。鑑真和上の場合は、嵐にあって船が難破して、目が見えなくなった。けれどもそのおかげで、心の目が澄んだと言っておられます。
モノがよく見えるためには、どうすればいいか。モノがよく見えないと、良い、悪いがわからない。そのためには、モノがよく見えるためには、そういう禁欲的な、修道的な、多少きついことを実践したほうがいい。訓練し努力するということです。
人は、モノが見えていると、きついことをやったことなど忘れてしまいます。普通、モノが見えないときには、きつい、きついと言うけれど、モノが見え始めてくると、そういうことは全部、忘れてしまう。
禁欲し修道して、訓練することです。そんなふうにして、「モノ」の存在に、「仏」の姿が見えてくるようになる。自分が作る「モノ」に、豊かな「物格」があらわれるのです。

 
「モノの世界と人間世界」(エピローグ)

終わりに言い残したことを加えましょう。デザインとは、己が念じていることをかたちにすることです。インダストリアルデザインは工業力で増幅されます。ですから、良きにつけ、悪しきにつけ影響力が大きいのです。建築のように一品だけのものもありますけど。
モノの世界は人間の思う通りになるようですが、それには人間には不遜さがあって、必ずしも人間の思うようにはなりません。
時代は、モノの世界が人間世界の足りないところを充足することがあります。長次郎の黒茶碗とか、正宗の日本刀、日本の名建築などがそうです。あまりの深さ、美しさに、見る人自身の心の乱れを救ってくれます。また人の知恵によって、モノの未熟を解決することもあります。優れた民芸品がそうです。
そこがいいところなのですね。人間世界とモノの世界は絶えず対峙しています。モノの世界は人間世界に不足や不満を感じると、必ずといっていいほど、その報復が始まります。それがモノ言わぬモノたちのやり方です。
環境問題はその好例といってよいでしょう。汚染や交通事故は愚かな欲望を制御させているのです。それらは、言葉を使わないで警告を発しているのです。
ですからわれわれは、モノとの付き合い方が肝要です。あえていえば、地球から生まれているモノの世界は、人間の力を借りることがあります。だからといって、モノの世界は決して人間世界に従属しているわけではありません。あくまでも、モノの世界は人間を利用していると言ってよいのです。
したがって、モノの世界の効用は人間自身にかかっています。それだけに、モノ言わぬモノの世界とは、コミュニケーションがなくてはいけません。その時、かたちが生まれ、デザインになるのです。デザインには、それほどの重みがあり、人間自らによって築かれなくてはなりません。モノとの完璧なコミュニケーションが求められているのです。
八十年の生涯でさまざまなモノと接してきましたが、どれも必ずしもいい結果にいたるとは言い切れません。考古学的に言えば、七百五十万年前から、人間と道具は付き合っているといいます。ですから、モノの世界と人間世界の付き合いは、人間の二足歩行が可能になった以前より始まったことなのでしょう。いってしまえば、モノの世界と人間世界とは切っても切れない関係にあると言えるのです。
まさに「物心一如」という言葉が当てはまります。地球を人間の願望通りにすることは、容易なことではありません。デザインはまさに物心一如の、その一点の具現化に力を注いでいる、といっても過言ではありません。モノの世界と完全にコミュニケーションができるまで、人とモノとの関係、つまりデザインは、果てしなく続いていくことでしょう。
意外とモノの心を知ったつもりでも「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というようなことになりはしないでしょうか。つかまえたと思った瞬間に手からすり抜けてしまうのです。
「悉皆仏性(しっかいぶっしょう)」となるか、はたまた「悉皆物性」となるかは、永遠の課題です。永遠の課題は永遠に解決されないままでいるのが、人間として、生き甲斐なのではないかと思えてなりません。
人間とは何かと問われて、ギリシア以前から数千年たっていますが、モノとは何かという問いは、今ようやく始まったばかりです。人間とモノとの関わりを創るデザインを究めるには、これから数千年はかかるだろうと思われます。
デザインをして何が分かるのかと問われれば、それは、人間を知り、モノの心を究めることと同じであるということです。デザインは倦むことなく、人にインパクトを与え続けているのです。
私が念願としている「道具寺道具村」の建立が、人間世界やモノの世界、つまりは、人格や物格を追求する道場になればと、こころより祈ってます。』

 
『デザインに人生を賭ける』栄久庵憲司(2009)

 
そこのキミ、どうやらモノには心がありそうだなと感じてきたかい?

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA