らしさ

プリント

 
魅力的なモノには、なにか“らしさ”みたいなモノが宿っている。よく個性的とか、オリジナリティーがあるとかそんなチンケな言葉で評される。でも実は、ほんの些細なモノでもその人“らしさ”ものがにじみ出ているものであり、個性やオリジナリティーなどというものよりもっともっと大切にしなければならないことなのだ。

 
学生の頃。石彫の課題で直径30センチぐらいの球を掘らされた。当時バカな学生だった私は、無責任でテキトーな仕事をしたことを覚えている。何年もたって後悔しても始まらないのだが、一見、簡単にみえる仕事にこそ自分“らしさ”を表現するポイントは沢山隠れていて、まさに自分を掘り下げることができるチャンスでもあるのだ。当時、出来の悪い生徒だったので、まったく課題をくみ取ることが出来なかったのだが、何年もしてその意味に到達できたのは、当時テキトーに過ごした数日間があったからこそで、今となっては、そんな課題を出してくれた学校と、講評のときに美しき珠をみせてくれた旧友たちに感謝するとともに、自分の中に教訓として組み込まれている。

 
勘違いしてはいけないのだが、モノづくりは、自分“らしさ”を表現することが目的ではない。モノづくりを追い求める過程で“らしさ”が自然とにじみ出てきてしまうものなのだ。それは、裸の自分のようでもある。であるからして、面白くもあり、憂慮しなければならないのだ。真面目に取り組む姿勢こそが、いい意味で“らしさ”を呼び込むことにつながるのであり、テキトーという自分“らしさ”が定着してしまっているのであれば、その時点で失格であり現場から退場すべきなのだ。

 
前置きが長くなってしまったが、今日は“らしさ”を呼び込む4つのポイントについて考えてみた。

 
“予見的認識”
若いとき、自分のアトリエを持つことが第一の夢だった。自分が何かをつくり続けられる環境を手に入れたかったのである。相当いろいろな人に迷惑をかけたし、助けてももらった。そんな仕事場があるのに、つくり続けることと止めてしまうこととの瀬戸際を日々歩いている。こんな文章を書いているのもつくり続けるための一つの手段なのである。年齢的なものもあるかもしれないが、アートとデザインから美術とモノづくりへと思考を変えようとも思っている。それは、自分の将来のこともるし、社会の変遷に一役買いたいという思いがあるからだ。時は流れているのだ。すべて、これからのことを考えてのことなのだ。

 
“美的五感”
いわゆる、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、といわれるものから、美しさの感じ方は人それぞれである。美しさに触れた数だけセンスがよくなるはずである。しかし、美という概念は不明瞭な点が多すぎていけない。均整がとれたものには、ある程度の法則がある、その法則を学べばそこそこ美しいものはできるだろう。だが人の感性は、実は法則だけで支配されているものではなく、超常的なもの影響されている、常に自己存在とそれをとりまく環境の関係において揺れ動いていているのだ。だから世の中、美しいが魅力を感じないものが大半なのである。だから美に対して常に疑いを持つべきだ、なにが美しいのか?常に問うのである。その日その時、美しいと感じてしまった自分を分析し、それが他人にも共感できるものか、将来的に美の法則として成り立つものなのかを常に考えている。

 
“身体的考察”
一時、陶芸にはまったことがある。その時に感じたことは、“手という道具”の偉大さだ。ロクロ場に行くと年配のうまい人がたくさんいた。未熟であった自分は、一生懸命、ツワモノのつくりを真似てロクロをひくのだが、あこがれのカタチには絶対にならない。普通の人よりはカタチをみる目はあるはずと自負していたのに同じようにやっても微妙な違いがあるのだ…。一見ほぼ同じでも絶対なにかが違うと感じるのだ。再度、ロクロをひいているツワモノの姿を端でつぶさに観察してみていると、「こうしよう、ああしよう。」という意思があまり感じられない、本当に自然体で土に向かっているのだ。そして自分との大きな差に気づいたのだ。“手”である。手の大きさやカタチ違うのである。あたりまえと笑ってはいけない。寸法を決めて図面どうりにつくったとしても手が触れる箇所は、その人のカタチにしかならないのである。それを考えると“手という道具”を鍛えつつ、素直に使うことを心がけなければならないのだ。

 
“合致的品質”
最終的にモノに落とし込むときには、完成度が求められる。どんなにすばらしいアイデアであっても、それを相手に伝えるときにボロボロの制作物で伝わることは、まずアリエナイ。仕事はキレイで当たり前なのだ。自分の意思が100%詰まったものを目指すのだ。現場ではプリンタで偶然ついてしまった小さな点も許されない、チェックを重ね、もしそんな落ち度があったらそれを修正するのだ。当然こんなことは最後の仕上げである、その前にすべきことが沢山あるのだが、最後の仕上げにどれだけ気を配っているかによって99%から限りなく100%に近づけるのだ。だからモノをつくる人は、細かいこだわりを持って、ひとつひとつを積み重ねている。

 
らしさにつながる4つのポイントをだしてみた。
ここまで書いて恥ずかしいが、上に書いたコトは、何一つとして出来ていない、ただの理想像だ。でも理想があるからこそ、それに近づこうとする意思が働く。今日する仕事にまやかしが無いか自分につきつけなければならない。

 
そこのキミ。キミがつくるものは、キミにしかつくれない。
それは、キミらしさが良くも悪くも働くからだ。オッサンは、本当のキミらしさがみたいのだ。
是非“らしさ”を究極まで追求してほしい。
オッサンもまだまだ、がんばるゾ。

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