ゆっくり急げ

モノづくりの世界は大抵は時間に追われている。締め切りがいつでもすぐそこにあるのが通常だ、そんなことにならないように早く手をつけなくてはならないのだ、といったお説教もいいが、それが出来ないから困ったものなのだ。

「急がば回れ」急いでいる時ほど後でトラブルが起きないように仕事を進めた方が、急いでボロボロのモノをつくって後で修正を繰り返すよりも早くゴールにたどり着ける。とはよく言われていることだ。制作のプロセスがしっかりと確立されていれば、一つひとつの作業を丁寧に進めればいいだけの話なのである。

しかし、ルールのないモノづくりの世界では、いかに近道を探し出すかが重要になる時もある。そんな時は「ゆっくり急げ」なのだ。まず、制作に入る前に課題を整理する。何が課題の中で解かなくてはいけない問題なのか?問題設定を見直してみるのだ!人が言っていることが真の問題点ではないことが結構ある、そして真の問題設定力が実は肝なのだ、課題を問うことが真のモノづくりなのだ。

そのためには、まず「急いで考える」のだ、他人から見ると、とっと制作にかかれよ!と言われそうだが、そんなプレッシャーに負けてはいけない、ゆっくり考えるのだ。ここで言う考えるとは頭で論理的に組み立てるコトではない。とにかく手で考えるコトだ、頭で見えているモノを最速で手で書いてみるのだ、思考の図も必要だし、解決案も必要だ、いわゆるラフスケッチだ、頭で見えていたものが正しかったかどうか、何を加えればもっと良くなるのか、もっとシンプルにするためにはどうしたら良いかなどを手で考えるのだ。ラフの時点で2回転ぐらいさせるつもりで自己否定してみよう。そうすれば、何を制作しなければ(検討しなければ)ならないのか?アイデアが見えてきているはずだ。

そして、忘れてはいけないコトがある。アイデアが見えてきた時点で人に相談だ!急いでいる時は判断力が鈍る、いつもよりも丁寧に人の意見を聞こう。そして相談しやすいようにラフをまとめておけばもっと良いだろう。

ここまでくればだいぶ道が見えてきているはずだ、まず優先される道を行こう!急げ!Go!

問題設定力

クリエイティブを語るうえで、「価値を創造するのか?問題を解決するのか?」というような言葉をよく耳にするようになった。人がまだ気づいていない盲点を見つけ出し、その盲点から発想し、モノゴトをつくる。つまり価値ある問題をみつけ、それを解決するための創造をすることが優等生というのだ、価値ある問題とは、より多くの人が感じてはいるが気づいていない事象ということになり、そして創造的な解決というのは、より多くの人が共感し、笑顔でそれを受け止めるということになる。が故に「気づき」という言葉が多用され、皆が「気づく」ために躍起になっている。

 
しかし、何かそんな方程式に違和感を感じる、人間味が感じられない…。なぜだろうか?

 
社会や人は変化し進化し続けなければいけない、昨日までの自分では許されない空気がある、その為に人は努力し、いろいろなモノゴトを学び、自分自身をバージョンアップさせ、より多くの「気づき」がえられる人間になり、人や社会のために貢献しなければならないという強迫観念にとらわれている人が多い。さらに働き方を変革し、余裕がある生活の中から、もっともっと「気づけ!」とせっつかれているようだ。まったく手に負えない状態なのである。

 
しかし、発想の原点での「気づき」はやはり必要であろう、問題を発見することも必要だが創造・解決するときに、発想の転換に「気づく」ことこそが必要なのだ。だから虫眼鏡で必死に観察することに集中することなく、鳥のように大空からゆったり眺めることも必要なのだ。

 
例えば悩んでいる人がいたとしよう、問題点はその人の「悩み」である。そしたらその人の困っていることを根掘り葉掘り聞き出し問題点を発見して、自己啓発本を読み漁りアドバイスし、解決してあげるのが解決だ。だが、それは得策ではないと思う。自分なりに問題を設定し直し「その人を幸せにしてあげたい」としたしよう、そうすれば一緒に馬鹿をやって心から遊ぶコトも手なのだ。その遊びの中から解決できるかもしれないじゃないですか?だから、つくるということは、「問題」ではなく「問題設定」なのですよ。

 
だからそこのキミ。「無理して気づける自分に変身することなどせず、そのままでいろいろなモノゴトに接して、ボーっとしてればいいんじゃない。」という軽いノリも時には必要ではないのかな?でもボーッとしてるヤツは「気づいた」方かいい!キミはどっちだ?

 
そして「問題を設定する=define」というのがこのブログの大きなコンセプトだったりする。
そして、「気づいてばかりいないで気づかせろ!」と言いたい。

競争から協創へ

モノづくりは、売れているモノを分析しそこからヒントを得るコトもよいが、そこにどのような対話がなされたかを分析することを忘れてはならない。今、魅力を感じるモノゴトには、多かれ少なかれ有意義な対話がなされた痕跡がある。表面的なカタチを真似をしたってかなうはずがないのだが。いまだに大半は表面的な模倣とか差別化とかに多くが向かっている。対話の技術を学べる場なんてものは少ないし、まだまだ発展途上なのだ。だからこそ可能性が眠っているし、開拓してゆく意義がある。そのためには、まず、つくり手が意識的に“競争から協創へ”という考えを沁み込ませていかなければならない。

グループワークやプロジェクトときくと、皆で喧々諤々、議論し喧嘩をして大変だ、そんなことなどしたくない。と感じている人が多い。確かにグループの中で個人それぞれが持つアイデアのどの案を通すかという時に自分が持っているものが最高だと思ってしまうのはしょうがないことだ。自分の案を通すために、そのアイデアの素晴らしさを力説し他者を蹴落とし戦うことが使命なのだと誤解している人が多いのだ。競争から協創へとモノつくりを進化させてゆくためには、他人が持っている知識や技術や勘を総動員して昇華させていくような対話してゆかねばならない。

しかし、さて対話だといって円卓テーブルについただけで全てが平等で対当な対話が成り立つと思ってしまうのは、大きな間違いである。みな自分の立場という席につき、建前から対話に入ろうとする、それは強い者も弱い者も皆同じだ。課題や問題が目の前にせまっている時、その認識が座る席によって大きな開きが生じてしまっているのだ。目の前に座っている人との断絶を感じるのも無理はない。「対話など通用する相手ではない。」「でも」「対話を続ける必要がある。」このような言葉を吐くべきではない。おそらく上記のような場合は、対話ではなく説得という言葉を明確に使うべきだ。上からも下からも目線の違う対話など成立するはずがないのだ。現状をみれば絶望的な結末を予想することしかできない。

では真の対話とは何なのであろうか?どのようなことなのであろうか?なんかすごい技術があるのだろうか?

対話をすることとは、コミュニケーションをとることではない。強い者は強い者なりに、弱い者は弱い者なりに自分ができることを探すのだ、お前はこうしろとかアナタやっといてとか、指示することではない。他者と自分と共感できる部分を掘り起こし、自分で自分のできることを探し、自らができることを実行に移すことに本来の意味があり、目的のために道筋をきめることが対話なのだ。どんなに小さなことでもいいから目的のために「一緒にやろう」と自らに約束することなのだ、説得し強要することではない。

表面的に対話という言葉が一人歩きしている場面をよく見かける、それは、自分らしさが一つも入っていない理想論をいくらやっても実行できることなんてひとつもないはずだ、でも無理矢理それをあたかも素晴らしい成果だというのも気恥ずかしい。自ら動くことにはその人にとって、いままでのやり方を捨て、天地がひっくり返るような大変なことだってあるのだ!それより何より、それ以前に自分が何者かというプロ意識みたいなものがなければ対話などするに価しない。

対話がうまくできるようになるためには訓練が必要だ、とくに日本的な和をもって人と接し、言葉の裏を探り合い、沈黙こそ美徳であるといったような中で対話をおこなうためには、よしこれから対話をするぞと無理やり自分の意識をそちらに持っていかなければならない。さらに個人個人が対話というものがどういうものかを知り、ファシリテーターとしての技術を学ばなくてはいけない、義務教育にも早く織り込むべきだと思う。

もう会議は止めて対話をしようと提案したいのだが、なかなか残念ながら理解を得ることは難しい、もっとそれについて学び、実践していかなければならないと思うのだが、そこのキミ、どうだろうか?対話の場はあるだろうか?

市場経済から市場社会へ

 
そこのキミ。
では具体的に何をどのようにすればよいのか?
矛盾をどのように解消すればよいのか?

 
追いかけきれないけれど、知らないだけでアイデアはどんどんと実行に移されているのだ!

 
興味あるかい?

なぜつくるのか?

そこのキミ。人は、なぜ、つくるのか?

 
日々、私たちは生命が脈打ち呼吸するように何も考えずに何かをつくり続けている。
今日は、なぜそんなコトを繰り返しているのか自問自答してみようと思う。

 
まず最初に思いつくことは、「生きるため」だ。ヒトは衣食住がなければ生きてゆけない進化をしてしまった。身を守るために着るものをつくらなければならないし、食べ物を手に入れるために動物を獲るための道具や農作物をつくらなければならない、さらに厳しい自然から逃れ安息な棲家が必要だ。ヒトは一本の棒を持った瞬間から生きるための道具を獲得するように進化したのだ。しかし、それはヒトに限ったことではなく、動物や昆虫でも似たように巣をつくったりすることを見ると生命活動の一種なのだといってもいいのかもしれない。

 
生命活動といえば、恋人をつくり結婚して子供をつくる。なんてことも種を絶やさず「生命を維持するため」というのも一つの答えなのだろう。他にも、ミイラも永遠の生命や蘇りを信じてヒトのカタチを残すという創造行為もその表れなのかもしれない。でも、「生命を維持するために、私はいろんなモノゴトをつくっているんだ。」というには少し隔たりを感じてしまう、それは、生命を維持するだけではなく、ずいぶんと余分なものを付け加えてしまっているからだ。その余分なものを削り落とせばよいとは考えづらい。

 
ではその余分なものとはなんだろうか?ミイラを例にとれば、まず人間関係が思いつく、王様と平民の上下関係をモノで表さなければならないのだ、誰もが煌びやかな装飾と永遠の命を手に入れられたわけではなく社会の頂点のみがそれを手にしていたのである。上下関係に関わらず、平民同士でも自他の目覚めが余分なものをつくるきっかけになっていたのではないだろうか。
もう一つ考えられるのは神(自然感・死生観)との関係だ、人間社会には常に人智を超えたところに神がいた、その神と「つながるため」につくらなければならないモノがあったのだ。そのモノは神を象徴するに留まらず、社会をまとめる役割、ヒトと神とつなげる役割、自分と内なる自分をつなげる役割、を担っていたのだ。

 
今日の結論として
「生きるために」物質的に満たされるために。「つながるために」心が満たされるために。さらにそれらが「維持」されるためにつくっているのだ。つまり、生命は「生きのびる」ためにつくらなければならないのだ。
どうだろうか?

世界は音

翌日。ライブに来てくれた人から
「余韻はありますか?」と訊かれた。
その時すでに、静寂は掻き消されていた…。
でも、それはそれでいい。
「個人が問われているのだ…」

 
『よい方向に向かうためには、意識の変革が必要である、そのために私は、人に伝える努力をしている。』多くの人がそのような意思表明をしている。しかし何十年も前にこのように書かれた本を読んでいると虚しさがこみ上げてくる。「なにも変わっていないどころか、悪化しているだけではないか?」結局のところ『意識の変革を求める』なんてことは、独りよがりのマスターベーションにすぎにのだ。では、何かを変える為にはなにをしたらよいのだろうか?政治か?教育か?娯楽か?情報か?モノづくりか?どこから手をつけたらよいのだろう?何かを変える為には誰に伝えたらよいのだろうか?家族?周りの人?問題意識や興味を持っている人?権力者?大衆?市民?その人たちは自分の思い通りに動いてくれるのだろうか?
『個人が問われている時代だ。』このようなことを言う人もいる。今の私はコチラの言い分の方がシックリくる。

 
先日、「太陽光発電音響装置計画(Solar project in garden)」の第三回目のプレゼンテーションを行った。電気と音を軸にした大崎leとういうスペースだ。誘ってくれたのは、中田粥さん。ふとしたきっかけで知り合ったのだが、彼がブッキングしている『悟性・超Nakedダシ 』というイベントだ(意味シンなタイトルだ!)。お客さんは、音楽家や電気装置をつくっている人たち。自分がやっているコトの解説と実際に音をだしての演奏(?)をおこなった。

 
数日前から読んでいた本に何度も出てくる「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」禅の問いである。心はその言葉に支配されていた。演奏で注意したのは、音が出るまでと音が消えた後の静寂を意識することと空間に流れている音との調和だけ。昨年の大失敗から、新たに改造したり付け足した機材は不安なく動いてくれて、出したい音を瞬時に出すことも、ある程度できるようになって、この時点では最高の出来だったのではないか?(自画ジーサン笑)と思う。

 
もう、這々の体である日常。『意識の変革を求める』なんて余裕は無い。死に行く日々の中で『個』としての生命をまっとうできるのか?もはや世界はそこまで追い込まれているのだ。

 
そこのキミ。
「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」
世界は音―ナーダ・ブラフマー

アート・スピリット

そこのキミ。たまには本を読んで応援されてみてはどうだろうか?
少々ウザイかもしれないが…。

 
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“ただ受け取るだけなら、奴隷でもできる”

 
“美は物質ではない。美は模倣できない。美は見る者の心に生まれた快感の感覚である。美しい物があるわけではない。だが、すべての物は、それを見て快感を起こすような、感受性と想像力にあふれた心がやってくるのを待っている。”

 
“この世の自由な人びとは、さまざまな方法で自分にとっての美を発見し、人に伝えようとする。”

 
”現代人は奇妙な文明に生きている。現代人の理性と魂は恐怖や人工的なものばかりでいっぱいになっており、そのせいで美に気づかないことさえある。世界が抱えているあらゆる厄災の元凶はこの恐怖であり、真実とじかに向きあえる視野の欠乏である。”

 
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今、私たちに求められていることは、『自分が表現したいモノをつくることではなく、皆に必要とされるものをつくること。』となってしまった。それは本来、つくり手として批判されるべきことであるのだが、それがまかり通っている。

 
全ての人々は、モノに対して消費者であり、批評家でもあり、無意識に自分に従わせようとする。そして民主的に多くの人が“いいね”というものがよしとされ、どうでもよいものは淘汰されていゆく。少数派は切り捨てられ、埋もれている美意識が大切に育てられることは無くなった。それは、消費には関係のないことだからだ…。

 
元々『どうしてもつくりたいモノ』を持っている人など世の中で微々たるものだ。モノはすでにあって、新たにつくり出す必要性など感じることも少ない、『つくらされているモノ』と『つくりたかったモノ』の判断すらできないほど、システム化された消費のなかでアートやデザインは終焉を向かえているのだ。このような状況下で「人間にとってモノづくりは、生命活動と直結している重要なことなのだ。」などと叫ぶことは、お笑いぐさでる。感受性や想像力といったものが軽視され、合理性や利便性を追い求めてきたことのツケに気づいている人は、ごくわずかであろう。

 
”自分が本当は何が好きなのかを知るのは簡単ではない。このことについて、自分を騙しながら一生を送ってしまう人も大勢いる。たいていの人は、生きながら死んでいる・・・” 80年前のこの言葉は重い。自分を見つめる力は退化の一途をたどるばかりである。もちろん、自分を見つめられない人が他者に向かうことなどありえない。もはや、生きながら死んだ人間に囲まれた荒んだ社会が進行中なのだ。

 
今、このような本が出版されるということは、絶望に沈む「つくりたいモノ」を持つ人への励ましと受け取れる。つくり手の孤独な戦いは、ますます過酷になってきていることを自覚せずにはいられない。

 

山をのぼる感覚

モノづくりは、登山に似たところがある。登山は、どんなルートを辿っても最終的に行き着くピークは一地点にすぎない、しかし、山に挑戦するときには、ルートやスタイルを自らが選択し、そして自らの計画に基づいて行動し、状況によっては変更をその場で判断し、ピークを踏んで安全に下山するまでが登山なのである。

 
同じ山でも、極めた登山家は、あえて難しい岩壁を選び、軽量化されたシンプルな装備で自分の力を信じてピークを目指す。また、実力はそこそこのパーティーは、安全を第一にリスクの少ないコースを選択し、充実した装備を荷揚げし、チームワークでピークを目指すのだ、どう行動しピークを踏むのか?その計画自体に登山家の美意識は隠れていて、計画されたイメージどおりに、まるで一枚の絵を完成させるように一歩一歩行動することが登山の全てなのである。そして、その瞬間瞬間を登山家は感じるのであり、ピークを踏むことだけが喜びではないのだ。

 
モノづくりも同様に、世に出てゆくひとつのモノのために様々なルートやスタイルがある。単独行的な作業でつくり上げられる場合もあるが登山と同様に極められた一部の人の特権である。一般的に多くは、パーティーを組んでプロジェクトをこなしていくようなスタンスが必要なのだ。

 
日々、モノをつくるプロセスについて他人を観察するのだが、一点のピークを目指している感覚を持たない人がいるのに驚きを感じる。モノづくりが業務化してしまうと最高のモノをつくろうとする意識が低下してしまうのだ、そもそも、地図をみてピークがどこなのかを確認しない、どんなに迷走しようがお構いなし、日没も怖くはない、なにか仕事をしているふうの評価を得ることが最重要事項になってしまっているのだ。これではクライアントや生活者に何かが届くはずもない。

 
さらに、モノづくりを発注する側でもモノに興味がない人は、どのようにモノがつくり上げられるのかを学ばない。プロセスの中にどのような困難やリスクがあるのかを知ろうとしないのだ。そのような人が無線機を使ってメンバーにピークを踏むことだけを命令するような行為は遭難を誘発する。モノづくりの真の辛さを知らないのだから当たり前だ。

 
モノづくりは、つくられたモノに全てが表出している。様々な困難を克服してきたモノには、それなりの輝きがあると思うのだ。

 
そこのキミ。キミは山をのぼる覚悟ができているのかい?

分析を分析する

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モノづくりの中で、当たり前のように某かの分析が行われる。
人が何を欲しがっているのか?皆が腹を空かせているいるような時代であれば答えは簡単だった。しかし、すべてが満たされているように見える時代。何が必要で、何が役に立ち、何が魅力的なのか?よく分からなくなってしまった。それは、あなたにとって、とても良いモノですからと言って、手渡して、使い方はさわれば解るでしょ、さぁどうぞ!というところまでしても、それがその人にとって欲しいものだったのかどうか判断できない。さらに悪いことに、経済は、もっと細かく人や市場から少しでも多くの利益を得る為の隙間を探すことに夢中なのだ。

 
私たちは、もうモノなど欲しくないのだ。

 
さぁて、どうしよう?と我々は腕組みをしている場合ではない、
まず調査だ!調査を分析すれば新たなモノづくりの展望がひらけるはずだ!

 
本当だろうか?

 
分析には2つのやり方がある。

 
①すでにある物事をスライスして、それらが成立している条件や要素を明らかにするやり方。
②まだない仮説をつくり、それを成立させる条件や要素を次々に明らかにするやり方。

 
①は、目の前に壁があることを証明してゆく、そこに壁があるから、それを避けて前に進むべきだという分析方法である。多くの分析手法はこの見えない壁の存在を明らかにする。そして、既にある概念を再構築し改善を繰り返すのだ。
②は、ヒラメキやインスピレーションと呼ばれる「たぶんこうだ!」という仮説が必要なのだ、その仮説を生む能力は「勘」と呼ばれるものなのだ。それは、洗練された「観」と「感」さらに、現実までの物語を描けるストーリーテラーに裏付けられたものでなければならない。そして、その仮説を分析してゆくのだ。

 
モノづくりをしていくなかで、この2つの分析はさけることができない。だが現場では、②の仮説をつくる方向は軽視されがちである。その原因は、システムや組織の中でプロとしての行き場が排除され、個人の想像力と創造力の欠如につきるのだ。

 
そして魅力的なモノづくりを調査という水で一生懸命に薄めてしまうのだ。間違いなく分析方法がおかしい。

 
そこのキミ。「これはどうなんだ?」という質問に
「あの人がこう言ってました。」とか「この記事にこんなことが書いてました。」とか言っていてはいけない。
自信がなくても「私はこう思います!」とハッキリと答えよう。
そして経験と感覚を伝えよう。
そこからプロとしての成長が始まり、プロどうしの対話が始まるのだ。

らしさ

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魅力的なモノには、なにか“らしさ”みたいなモノが宿っている。よく個性的とか、オリジナリティーがあるとかそんなチンケな言葉で評される。でも実は、ほんの些細なモノでもその人“らしさ”ものがにじみ出ているものであり、個性やオリジナリティーなどというものよりもっともっと大切にしなければならないことなのだ。

 
学生の頃。石彫の課題で直径30センチぐらいの球を掘らされた。当時バカな学生だった私は、無責任でテキトーな仕事をしたことを覚えている。何年もたって後悔しても始まらないのだが、一見、簡単にみえる仕事にこそ自分“らしさ”を表現するポイントは沢山隠れていて、まさに自分を掘り下げることができるチャンスでもあるのだ。当時、出来の悪い生徒だったので、まったく課題をくみ取ることが出来なかったのだが、何年もしてその意味に到達できたのは、当時テキトーに過ごした数日間があったからこそで、今となっては、そんな課題を出してくれた学校と、講評のときに美しき珠をみせてくれた旧友たちに感謝するとともに、自分の中に教訓として組み込まれている。

 
勘違いしてはいけないのだが、モノづくりは、自分“らしさ”を表現することが目的ではない。モノづくりを追い求める過程で“らしさ”が自然とにじみ出てきてしまうものなのだ。それは、裸の自分のようでもある。であるからして、面白くもあり、憂慮しなければならないのだ。真面目に取り組む姿勢こそが、いい意味で“らしさ”を呼び込むことにつながるのであり、テキトーという自分“らしさ”が定着してしまっているのであれば、その時点で失格であり現場から退場すべきなのだ。

 
前置きが長くなってしまったが、今日は“らしさ”を呼び込む4つのポイントについて考えてみた。

 
“予見的認識”
若いとき、自分のアトリエを持つことが第一の夢だった。自分が何かをつくり続けられる環境を手に入れたかったのである。相当いろいろな人に迷惑をかけたし、助けてももらった。そんな仕事場があるのに、つくり続けることと止めてしまうこととの瀬戸際を日々歩いている。こんな文章を書いているのもつくり続けるための一つの手段なのである。年齢的なものもあるかもしれないが、アートとデザインから美術とモノづくりへと思考を変えようとも思っている。それは、自分の将来のこともるし、社会の変遷に一役買いたいという思いがあるからだ。時は流れているのだ。すべて、これからのことを考えてのことなのだ。

 
“美的五感”
いわゆる、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、といわれるものから、美しさの感じ方は人それぞれである。美しさに触れた数だけセンスがよくなるはずである。しかし、美という概念は不明瞭な点が多すぎていけない。均整がとれたものには、ある程度の法則がある、その法則を学べばそこそこ美しいものはできるだろう。だが人の感性は、実は法則だけで支配されているものではなく、超常的なもの影響されている、常に自己存在とそれをとりまく環境の関係において揺れ動いていているのだ。だから世の中、美しいが魅力を感じないものが大半なのである。だから美に対して常に疑いを持つべきだ、なにが美しいのか?常に問うのである。その日その時、美しいと感じてしまった自分を分析し、それが他人にも共感できるものか、将来的に美の法則として成り立つものなのかを常に考えている。

 
“身体的考察”
一時、陶芸にはまったことがある。その時に感じたことは、“手という道具”の偉大さだ。ロクロ場に行くと年配のうまい人がたくさんいた。未熟であった自分は、一生懸命、ツワモノのつくりを真似てロクロをひくのだが、あこがれのカタチには絶対にならない。普通の人よりはカタチをみる目はあるはずと自負していたのに同じようにやっても微妙な違いがあるのだ…。一見ほぼ同じでも絶対なにかが違うと感じるのだ。再度、ロクロをひいているツワモノの姿を端でつぶさに観察してみていると、「こうしよう、ああしよう。」という意思があまり感じられない、本当に自然体で土に向かっているのだ。そして自分との大きな差に気づいたのだ。“手”である。手の大きさやカタチ違うのである。あたりまえと笑ってはいけない。寸法を決めて図面どうりにつくったとしても手が触れる箇所は、その人のカタチにしかならないのである。それを考えると“手という道具”を鍛えつつ、素直に使うことを心がけなければならないのだ。

 
“合致的品質”
最終的にモノに落とし込むときには、完成度が求められる。どんなにすばらしいアイデアであっても、それを相手に伝えるときにボロボロの制作物で伝わることは、まずアリエナイ。仕事はキレイで当たり前なのだ。自分の意思が100%詰まったものを目指すのだ。現場ではプリンタで偶然ついてしまった小さな点も許されない、チェックを重ね、もしそんな落ち度があったらそれを修正するのだ。当然こんなことは最後の仕上げである、その前にすべきことが沢山あるのだが、最後の仕上げにどれだけ気を配っているかによって99%から限りなく100%に近づけるのだ。だからモノをつくる人は、細かいこだわりを持って、ひとつひとつを積み重ねている。

 
らしさにつながる4つのポイントをだしてみた。
ここまで書いて恥ずかしいが、上に書いたコトは、何一つとして出来ていない、ただの理想像だ。でも理想があるからこそ、それに近づこうとする意思が働く。今日する仕事にまやかしが無いか自分につきつけなければならない。

 
そこのキミ。キミがつくるものは、キミにしかつくれない。
それは、キミらしさが良くも悪くも働くからだ。オッサンは、本当のキミらしさがみたいのだ。
是非“らしさ”を究極まで追求してほしい。
オッサンもまだまだ、がんばるゾ。