凸凹

プリント

 
モノづくりには、2つの企てがある。

 
1つは、人やモノや社会や環境の凹みをキレイに補ってやろうという考え。

 
もう1つは、凹みを補うことを目指すが、つくり手の創見を取り込もうとする考えだ。

 
多くのデザインは、上記の半円のように、効率的にスマートなモノづくりを目指してきた。
アートやクラフトは、下記の正円に近い。多少の不確定要素や不便である差分は、愛着と呼ばれるような馴染みを生む。

 
そこのキミ。どちらが正しいということではないが…
defines.jpは、アンバランスな下記を目指したいのだ。

非言語・暗黙知

プリント

 
最近、非言語や暗黙知をビジネスに活用せよ!という流れが出てきている。大きな2つの潮流だ。

 
1つめは、動物的なヒトの習性を利用して一儲けしようゼ!というもの。極端な例は、ヒトは赤色には反応するから、この売り場には赤い商品を並べたら売れますョ、というもの。言葉では表せない、共通認識みたいなもの、思わず反応してしまう事をなんとか探り当ててモノを売ろうゼというもの。どうも、魚釣りの疑似餌みたいな感じで…なんかバカにされている気がしてくるのだが…。けっこう研究されているようである。

 
もう1つは、いわゆるプロが集まって非言語・暗黙知領域を探ろうゼ!とする流れだ。かつて、モノづくりの現場では、個人ひとり一人が自分の非言語・暗黙知領域にたどりつき、そこにある共通認識らしきものを探し出してくることが仕事だった、しかしながら、その手法も情報過多による、やりつくした荒廃感があるということで、みんなで仲良くワークショップなどをしながらファシリテータをたよりに効率よく非言語・暗黙知から発見されたコトバを次のモノづくりに活かそうゼ。とする動きである。多くの合意をもとにモノづくりに励むのだ。

 
最近のモノづくり終焉に、非言語・暗黙知の軽視が1つの理由であるとするならば、人間の奥深さへの探究をもう一度、クリエータなどと呼ばれる人たちが再考すべきであろう。最先端の研究者が仏教に目ざめるというようなことも探求心に由来するものではないだろうか…?

 
様々な知識や経験を詰め込んだ人の非言語・暗黙知を探ることは興味に値するが
薄っぺらなヒトから抜き取ったそれは、動物性を浮かび上がらせる。
どうも、最近の傾向は後者を連想させる。
人がつくりだすモノは、その人の感じが在るハズだ。

モノづくりは、コスト削減

ある日、先輩と議論になった。
「片平!、モノづくりってコスト削減のことだよ!」
「耳をかっぽじって聞きますから、もう一度言ってもらっっていいですかネ?」
「だから、モノづくりってのはコスト削減のことなんだよ!」
「…。」

 
もう、ずいぶん前のことだ。

 
また、ある日、後輩からも
「片平さん、モノづくりってコスト削減のことと聞いたんですが…。」
「誰からそんなコトを吹聴されたんだ?」
「…。」
「わかった、わかった。僕が考えるモノづくりの話を聞いてくれるかい?」
そんなやりとりがあった。

 
“モノづくり=コスト削減”この理論がどこからくるのか?を推察してみると
新しいモノが生まれにくい現在、すでにあるモノで皆が勝負をかけてくる。
そうなると、モノの価格はとても重要になってくるのだ。
売りたいものが、同質で差が感じられないときには、価格操作しか生き残る道がないのである。
価格操作の為に、気づかれないように、品質をギリギリ犠牲にすることもあるのだ。

 
それがコモデティー化だ。

 
確かに、関わっている仕事を省みて、新しさも考えず、何も考えず、システマティクな現場において
「モノづくりってのはコスト削減のことなんだよ!」と叫びたくなる気持ちも分かる。

 
デザインという言葉が生まれてから
真似に真似まくることによってデザイン業界は成り上がってきた。
それによって、生活も豊かになったと感じている人も多いのだろう。
でも、恥とか道徳心といった感覚も既に麻痺していることに気づいていないのも現実だ。
だから、デザインなんて言葉をもう使いたくないのだ。

 
今、モノマネではなく、モノから学ぶことが必要なのだ。
そこには、多くの宝が眠っている。そのプロセスを研究すべきだなのだ。
コスト削減などせず、改悪はせず、完成されたものを提供し続けてほしい。と願うのは私だけだろうか?
人は、それを許さないなのだろうか?

 
そこのキミ。もし、「モノづくりってコスト削減のことだよ!」などという人と出会ったら、
「そうですか…。話になりませんね…。」といって席を立つか、立たないか?キミはどちらだ?

脱成長

今、感じている事は、真の成長が起こらない経済成長を最優先させている時代である。ということ。
昨日、youtubeで選挙演説の一説に「脱成長」のワードがでてきた。
このことは、Defines.jpの考えに大きくかかわってくる問いでもある。

 
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asahi.comより
経済の成長は人を幸せにしない 経済哲学者・ラトゥーシュ氏に聞く

 
2010年7月13日

 
「脱成長」を掲げて経済発展や開発のあり方を問い続ける仏の経済哲学者セルジュ・ラトゥーシュ氏(70)が、日仏会館の招きで来日した。初の邦訳書『経済成長なき社会発展は可能か?』(作品社)が今月刊行されたラトゥーシュ氏に、あるべき経済政策などについて聞いた。

 
■地域社会の自立こそ必要
同書は欧州を中心に広く読まれており、日本での出版は13カ国目になる。「脱成長(デクロワサンス)」は、「だんだん弱く」を意味する音楽用語「デク レッシェンド」と同じ語源をもつ。経済の規模を徐々に縮小させ、本当に必要な消費にとどめることが真の豊かさにつながると氏は説く。

 
「私が成長に反対するのは、いくら経済が成長しても人々を幸せにしないからだ。成長のための成長が目的化され、無駄な消費が強いられている。そのような成長は、それが続く限り、汚染やストレスを増やすだけだ」
資源や環境の問題が深刻化する中で、「持続可能な成長」という考え方が国際的に広く受け入れられるようになった。だがラトゥーシュ氏は、「持続可能な成長」は語義矛盾だと指摘する。「地球が有限である以上、無限に成長を持続させることは生態学的に不可能だからだ」

 
世界経済が長期不況にあえぎ、日本でも貧困問題が深刻化しはじめた。経済成長こそが貧困を解決するという経済学の「常識」が力を得ていく中、「脱成長」は旗色が良くないようにも見える。
この点に関してはラトゥーシュ氏も、今の社会システムのままでマイナス成長に転じても事態はかえって悪化するだけだ、と認める。

 
「より本質的な解決策は、グローバル経済から離脱して地域社会の自立を導くことだ。『脱成長』は、成長への信仰にとらわれている社会を根本的に変えていくための、一つのスローガンだ」
物質的な豊かさを達成した「北」の国々だけでなく、「南」の貧しい国も成長を拒否すべきなのだろうか。
「北の国々による従来の開発は、南の国々に低発展の状態を強いたうえ、地域の文化や生態系を破壊してきた。そのような進め方による成長ではなく、南の人々自身がオリジナルの道を作っていけるようにしなければならない」

 
就任間もない菅直人首相は、経済成長と財政再建は両立できると訴えている。だがラトゥーシュ氏は、「欧州の政治家も同じようなことを言っているが、誰も成功していない」と批判する。

 
「彼らは資本主義に成長を、緊縮財政で人々に節約を求めるが、本来それは逆であるべきだ。資本主義はもっと節約をすべきだし、人々はもっと豊かに生きられる。我々の目指すのは、つましい、しかし幸福な社会だ」(樋口大二)

 
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モノは、生活を豊かにさせるものでもあり、経済成長にも大きな関わり(貢献と恩恵)を持ってきた。今、つくり手が考えなくてはいけないことの一つは、今後の「成長への関わり方」である。

 
そこのキミ。キミは何を成長させるつもりだい?

bookcover

bookcover

 
今年からシステム手帖をやめようと思い
薄いノートっぽいやつを購入した
表紙があまりにもビニールなので
あまっていた布でブックカバーをつくってみた

 
相方さんから試作品?と言われた…

恥る意識

パッケージ

先日、勤め先でパッケージの本を開いてあれやこれや打ち合わせをした。

 
100年前、20年前、10年前、最近と時代とともにモノづくりの考え方の違いがはっきりと見てとれる。職人性は薄れてゆき、合理性や取り巻きを含めたモノづくりへと遷移してきている。モノそれ自体の魅力は薄れ、ヒトとモノとのストレスのない結付が重要視されてきているようである。

 
その理由を分析すれば、モノに溢れた時代にモノと機能との関係が深まりカテゴリーが形成されていった。それ以後はそのカテゴリーの既視感を明確に伝えることが消費への近道であることに気づいた。そしてモノは消費とのバランスをとりながら提供されるコトへと進化してきたのである。

 
今世紀の始まりのころ、物質から精神の時代へと人類は進化するのダ。との予測を耳にした。しかし10数年を経て感じていることは、その理想像とのズレを感じる。ヒトは道具とともに進化してきた生物である、その道具のあり方が多くの場合ズレているのだ。

 
そこのキミ。年が新たまるとともに1年単位ではなく100年単位で考えを深めてみてはどうだろうか?そして今年の目標ではなく10年後20年後を描いてみてほしい。

時は金ではない

「時は金なり」とはよくいってくれたものだが、この言葉には、いささか不信感をいだいたほうがよさそうだ。

 
「時間資源を有効に使って、ワークとライフのバランスをとってください」この言葉も一見そのとうりと、うなずいてしまいそうになるが。不幸に導く大きな危険性を孕んでいる。

 
モモという物語の中で「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が奪われていく、そうすると、皆の心から余裕が消えてしまうのだ…。しかし、物語ではモモが見事に解決に導いてくれるのだが、現実世界では盗まれっぱなしなのである。
時間資源(時は金なり)という発想はおかしい。本来、時は私に与えられた財産である。無駄に使おうと有意義に使おうと勝手であるはずなのだが…。時間とお金の価値を同一視したところから人類は大いなるあやまちを犯し、そのあやまちに気がつくどころかどんどんとその罠にはまってしまったのである。

 
本来、時とお金は同等であるべきでは無い、それは、人間は生産のみに生きる動物ではないことと、人間にとっての価値の全てがお金に換算できるというのは大きな間違いである。

 
仕事の効率を考えてより生産性を上げるために時間の使い方を定義することは、一見グッドアイデアにみえるかもしれない、でも、結果的にマニュアル化されたロボットのような人材を量産することと手抜きされたモノを生み出す元凶になる。これはよく考えれば解ることである。「効率化された労働から生み出された余裕のある時間でもっと創造的で有意義な仕事をすべきだ」というロジックは一部のスパーマンにしか通用しない。目の前にある仕事をいかに丁寧に有意義に取り組むかを考えたほうが幸せになれるハズである。人が本来もとめているものは、人に優しいことだけではない。美しく生きることは、そういうことではないのだ…。

 
そこのキミ。時間は人々に平等に与えられた貴重なものである。それは人生において何物にも代えがたい独立した要素であると考えるべきだ、お金に換算する意外の価値を見いだしてくれたまえ!たとえキミがスパーマンであったとしてもだ。

 

修行時代

「こんなコトをやってて、何の“意味”があるのですか?」

 
モノづくりの過程において、その“意味”をつくる前に知ることはできません。
それが何ものか解らないから手を動かすのであって、つくった後にモノを眺めて自分が何がつくりたかったのかを始めて知るのです。
しかも、それに気づくのには、ずいぶんと時間がかかるものなのです。
さらにモノづくりは、自分のためだけにするものではなく、他者のためにするものでもあるのですが、
他者がそのモノから、便利とか安全とか如何にもそれを望んでいるかのようなことではなく、
もっと深い部分で何を得たのかということも、すぐに知ることはできないのです。

 
消費社会の中では、自分では何も発想せず。何もつくらず。目の前にあるモノを、お金を使って手に入れ、
その時点でのパフォーマンスが最優先されます。ですからモノをつくる人自身が消費社会にどっぷりと浸かっている場合、
そこから魅力的なモノなど生まれ出るはずなど有りえないのです。

 
消費の特徴は、無時間性にあるとも云われています。無時間性とはすぐに結果を求めるということです、じわじわと体質改善をするより直ぐに効く劇薬を求めているのです、ですから結果がみえないことに手を動かすなどということは有りえないのです。

 
私たちは、今、消費に押しつぶされそうになっています。一人ひとりが消費者ではなく“つくり手”であることを強く心に刻んでおく必要があります。
モノづくりの過程で、「解からないことは、解らないままとっておけ!」とよく云われます、“つくり手”は、まだ未知数である解らないことにも挑戦するのです。それは、時間とともに経験値があがり解ることもあるからです。そして解決を手にした時に、他者を巻き込んだ喜びを得たいのです。

 
そこのキミ、私も若い頃、同じように「こんなコトをやってて、何の“意味”があるのですか?」という疑問を持った。
でも、手だけは動かした、そこには、“つくり手”としての修行や経験が詰まっているのじゃ。
そして今でも意味が解らないことに取り組むのは、“つくり手”としての態度だと思っている。
だから、負けないでほしい。

アイデアをだしきる

プリント

 
【defines.jp】を思いつく発端にブルーノ・ムナーリの『モノからモノが生まれる』を読んで触発されるものがありました。
モノづくりの一連の流れの「問題P」(problema)から「解決S」(soluzione)に向かうのに何が必要とされるのかが順番をおって分析されています。まず最初に出てくることはPとSの間に「問題を定義することDP」(definizione del problema)ということが書かれています。つまりは、目の前の課題にどのような問題が隠れているのかを察知する力を身につけ、そして解決に向けた行動にうつしてゆくことなのです。

 
ただ、問題を定義せよ!と言われても。どこからどんな風にそれをやっていったらよいのか見当がつきません。そこで、この本のなかに描かれていた図を少し発展して、今風に私なりに少しまとめてみました。アイデアを出すときに自分が考えたアイデアがどこに位置していて他のアイデアとどのような関連を持つのか、まとめるのに役に立つのではないかと思います。

 
まず、目の前に課題に対してある程度の「情報・学び」を持っているか?確認してみる必要があります。最近は常識とか普通という概念がもはや消失している現場が多く、この程度の情報をもっているのは普通だろとか、このくらいのコトができるのは常識だよねとか、そんな言い草がまったく通じなくなってきています。自分も人のことは言えませんが、日頃から何気なくこれらに触れていることがモノをつくる人の常識だと思うのですが、課題が与えられてからの深い情報収集と学びのノウハウを確立する必要があるのでしょう。ただそれらに頼って積み上げ式でモノゴトを考えてゆくフォアキャスティング的な考え方だけではなく、アイデアを飛ばして離れた位置からそこにたどり着くために何をしたらよいのかというバックキャスティング的な発想も求められています。それらの要素を洗い出し、課題に対しての解決の落としどころを見つけ出してゆくことが求められています。

 
そこのキミ。課題に対しての解答は一つではない。どんな簡単にみえる課題でも様々な解答がそこには隠れているはずだ。それを見極めようとする意思がモノづくりを前進させる原動力なのだ。そして自分なりの解答をいかに導きだせるか?常識をぶち壊してみるのじゃ。

面白がる

私の仕事ってなんだろう?と思います。
周りから、訳のわからない仕事を押しつけられて…。
これって私の仕事なのだろうか?と疑問に思うことが多々あります。
でもイザ、「私の仕事は、○○です!ですから、残念ながらそのような仕事は、お受けることができません。」と胸をはって言うには、おこがましいし、自信もない。そんなわけでズルズルとめんどうな仕事に渦に巻き込まれることになります。

 
おおかた、そんなコトをしていると、雪だるま式に追いまくられ、あげくに、心とカラダがやられて悲惨な目に遭うことは想像に難くないのです、ですから、ビビってなるべく仕事から逃げようとするのですが…、捕まってしまった時はあきらめることにしています。

 
私たちの役目って何なのでしょうか?

 
苦しい思いをしても、モノを世に送り出し、そのモノによって、何がしかの人の役に立ち、少しは社会と関わる。そして、その対価を受け取り、生きてゆくために必要なモノを手に入れる…。そのようなことだと思うのです。

 
「私の仕事じゃないんで…。」と言って、簡単に仕事から逃げてしまうことは簡単かもしれません。余計なことはしたくないということも分かります。でも、自分の趣味と合わないことや興味が無いことでもイヤイヤではなく、面白がってやってみるべきなのです。正反対の価値感だなと思うものでも、とりあえずその価値感を理解し面白みを見いだしやってみましょう。たとえ、アホらしい単純作業だったとしても、自分でゲームのルールを決めて、面白がれる仕事の進め方に変えてみましょう。

 
そうすることでオノレの引き出しは増えていくのです。人は未知の世界に挑んでいるときに輝けるものなのです。一見、簡単そうに見えても、実は奥が深い物事は沢山あります。人は自分が動くことで初めてそのことに気づくのです。

 
そこのキミ。これは、全員に強制するものではありません。これは生き方の選択なのです。
もし、豊かに生きたいのであれば、面白がるとはなにか?面白がって仕事をするためにはどのようにしたらいいのか?一度、ゆっくり考えてみて欲しい。きっと、そのためにすべきことは、山のようにあるはずなのです…。その山が宝の山かもしれないことを意識してみると少しは前向きになれるのかもしれませんネ…。