風立ちぬ

『風立ちぬ』宮崎駿監督を見にいった。

 
久しぶりにメジャーなというか、大きな劇場にいったのでなんか場違いな感じで落ち着かなかったが…。
これは、モノづくりのための映画なのであります!とハッキリと言い切れるため、ブログに記す次第である。

 
主人公はモノづくりの鏡なのであります。

 
劇中の台詞に「人殺しの機械とかではなく、美しいものをカタチにするだけだ。」的な発言がありました。
“夢は狂気をはらむ、その毒もかくしてはならない。美しすぎるものへの憬れは、人生の罠でもある。美に傾く代償は少くない。”
まさに真髄をついているというか、おそらく監督自身の言葉としてのコチラに響いてくるものがあった。

 
劇中に何度も「美しい」という言葉がでてきます。そして、その時代の「美しい風景」。「美しい時間」。
ついこの間までそこにあったような気分でいるのだが、そのノスタルジックな美は、もう忘れ去られた…。
おそらく現代においては、途切れた遺伝子なのかもしれない。
モノづくりの熱さ。それも忘れ去られた出来事なのかもしれない。

 
ただ、わたしの脳髄を揺さぶる何かが、まだそこに残っている。
左手で愛する人の手をにぎり、タバコを吸い、右手でモノをつくる。
ギリギリな状態でも、何かに取り憑かれている。
今日でも大いに共感できる。
正しい、間違っている、といったことではないのだ。

 
そこのキミ、今、戦前になぞらえている。私たちは、何に取り憑かれているのだろうか?

イームズの時代

130520

イームズのドキュメントが今、公開されています。
早速、映画館に足をはこび、みてきました。

 
イームズが次々に大企業の経営者と握手をするサクセスシーンはその時代を象徴することだなと思いました。その時代は、モノの隙間をデザインが埋めてくれました、そしてそれがビジネスへとつながった。だからお金儲けの好きな人々は、モノやデザインを目利きする能力が必要でした。そして、お金がなければ生きていけない、電気やテレビや冷蔵庫がなければ生きていけない、といった社会システムを私たちはモノを通してつくってきてしまいました。そして、時代のデザインをより多くの人に低価格で普及させるということでした。

 
時代は進み、もう目をひく新しいモノなどそう簡単に生まれなくなってくるとグローバルの価格差を利用してお金が儲かることがわかりました、さらに、先端的の小さな会社を探し、そのサービスが人々に受け入れられるかどうかを判断してその会社に投資したりしてお金を儲けることが現在の価値感になりました。だれも新しいモノをつくって儲けようなどどは考えなくなり。今ある価値をぐるぐる引きずり回して無理矢理できた小さな差分でお金を儲けることが主流になってしまったようです。お金儲けができるか、できないか。という価値観で“モノづくり”を評価する。それがイームズ以後の今なのです。

 
ただ、それは企業単位のお話で“モノづくり”の新しい潮流は着実に生まれてきています。どんどんと大衆性は薄れてゆきますが、反比例するように、個人レベルの小さなコミュニティーや、まだ貧しい国々などといった、人や自然との関わりの中から本当に自分たちに必要な生活道具を適正なコストでつくってゆく方向にシフトしていってるのではないでしょうか?つくれる人がつくる、お金なんかどうでもいい、“モノづくり”の喜びや実感を得たいという志向は、イームズのモノづくりと共通することなのだと思います。

 
私のアトリエでは、ニッポン人にはちょっと大きめのイームズチェアやフィルムがバカ高いポラロイドはいまだに現役です。それは、大量消費品であるとともに、人間的でとても暖かみのあるモノたちです。今では、そんな工業品は年々少なくなってきているような気がします。ドキュメントの中で企業家と笑顔で握手するイームズより、アトリエで仲間たちとモノをつくっているイームズの姿の方が魅力を感じました。手で素材を触り、そして道具もつくり、モノをつくるといったような、クラフト的で純粋な仕事から普遍的なカタチが生まれてきたのです。けっして、儲けるためにモノをつくっていたわけではないのです。おそらく個人的な生活の未来像があってこそ、そこに明確な価値観があってこそ魅力的なモノを次々と生み出すことができたのではないでしょうか?

 
イームズが、もし、まだ生きていたら…。
企業家ではなくアフリカの人たちと笑顔で握手しているのかなぁ?
そんな妄想を帰り道に考えてしまいました。

 
そこのキミ。
もし映画をみるのであれば、サクセスストーリーではなく
“モノづくり”って何だ?という視点で是非見て下さいョ。