競争から協創へ

モノづくりは、売れているモノを分析しそこからヒントを得るコトもよいが、そこにどのような対話がなされたかを分析することを忘れてはならない。今、魅力を感じるモノゴトには、多かれ少なかれ有意義な対話がなされた痕跡がある。表面的なカタチを真似をしたってかなうはずがないのだが。いまだに大半は表面的な模倣とか差別化とかに多くが向かっている。対話の技術を学べる場なんてものは少ないし、まだまだ発展途上なのだ。だからこそ可能性が眠っているし、開拓してゆく意義がある。そのためには、まず、つくり手が意識的に“競争から協創へ”という考えを沁み込ませていかなければならない。

グループワークやプロジェクトときくと、皆で喧々諤々、議論し喧嘩をして大変だ、そんなことなどしたくない。と感じている人が多い。確かにグループの中で個人それぞれが持つアイデアのどの案を通すかという時に自分が持っているものが最高だと思ってしまうのはしょうがないことだ。自分の案を通すために、そのアイデアの素晴らしさを力説し他者を蹴落とし戦うことが使命なのだと誤解している人が多いのだ。競争から協創へとモノつくりを進化させてゆくためには、他人が持っている知識や技術や勘を総動員して昇華させていくような対話してゆかねばならない。

しかし、さて対話だといって円卓テーブルについただけで全てが平等で対当な対話が成り立つと思ってしまうのは、大きな間違いである。みな自分の立場という席につき、建前から対話に入ろうとする、それは強い者も弱い者も皆同じだ。課題や問題が目の前にせまっている時、その認識が座る席によって大きな開きが生じてしまっているのだ。目の前に座っている人との断絶を感じるのも無理はない。「対話など通用する相手ではない。」「でも」「対話を続ける必要がある。」このような言葉を吐くべきではない。おそらく上記のような場合は、対話ではなく説得という言葉を明確に使うべきだ。上からも下からも目線の違う対話など成立するはずがないのだ。現状をみれば絶望的な結末を予想することしかできない。

では真の対話とは何なのであろうか?どのようなことなのであろうか?なんかすごい技術があるのだろうか?

対話をすることとは、コミュニケーションをとることではない。強い者は強い者なりに、弱い者は弱い者なりに自分ができることを探すのだ、お前はこうしろとかアナタやっといてとか、指示することではない。他者と自分と共感できる部分を掘り起こし、自分で自分のできることを探し、自らができることを実行に移すことに本来の意味があり、目的のために道筋をきめることが対話なのだ。どんなに小さなことでもいいから目的のために「一緒にやろう」と自らに約束することなのだ、説得し強要することではない。

表面的に対話という言葉が一人歩きしている場面をよく見かける、それは、自分らしさが一つも入っていない理想論をいくらやっても実行できることなんてひとつもないはずだ、でも無理矢理それをあたかも素晴らしい成果だというのも気恥ずかしい。自ら動くことにはその人にとって、いままでのやり方を捨て、天地がひっくり返るような大変なことだってあるのだ!それより何より、それ以前に自分が何者かというプロ意識みたいなものがなければ対話などするに価しない。

対話がうまくできるようになるためには訓練が必要だ、とくに日本的な和をもって人と接し、言葉の裏を探り合い、沈黙こそ美徳であるといったような中で対話をおこなうためには、よしこれから対話をするぞと無理やり自分の意識をそちらに持っていかなければならない。さらに個人個人が対話というものがどういうものかを知り、ファシリテーターとしての技術を学ばなくてはいけない、義務教育にも早く織り込むべきだと思う。

もう会議は止めて対話をしようと提案したいのだが、なかなか残念ながら理解を得ることは難しい、もっとそれについて学び、実践していかなければならないと思うのだが、そこのキミ、どうだろうか?対話の場はあるだろうか?

なぜつくるのか?

そこのキミ。人は、なぜ、つくるのか?

 
日々、私たちは生命が脈打ち呼吸するように何も考えずに何かをつくり続けている。
今日は、なぜそんなコトを繰り返しているのか自問自答してみようと思う。

 
まず最初に思いつくことは、「生きるため」だ。ヒトは衣食住がなければ生きてゆけない進化をしてしまった。身を守るために着るものをつくらなければならないし、食べ物を手に入れるために動物を獲るための道具や農作物をつくらなければならない、さらに厳しい自然から逃れ安息な棲家が必要だ。ヒトは一本の棒を持った瞬間から生きるための道具を獲得するように進化したのだ。しかし、それはヒトに限ったことではなく、動物や昆虫でも似たように巣をつくったりすることを見ると生命活動の一種なのだといってもいいのかもしれない。

 
生命活動といえば、恋人をつくり結婚して子供をつくる。なんてことも種を絶やさず「生命を維持するため」というのも一つの答えなのだろう。他にも、ミイラも永遠の生命や蘇りを信じてヒトのカタチを残すという創造行為もその表れなのかもしれない。でも、「生命を維持するために、私はいろんなモノゴトをつくっているんだ。」というには少し隔たりを感じてしまう、それは、生命を維持するだけではなく、ずいぶんと余分なものを付け加えてしまっているからだ。その余分なものを削り落とせばよいとは考えづらい。

 
ではその余分なものとはなんだろうか?ミイラを例にとれば、まず人間関係が思いつく、王様と平民の上下関係をモノで表さなければならないのだ、誰もが煌びやかな装飾と永遠の命を手に入れられたわけではなく社会の頂点のみがそれを手にしていたのである。上下関係に関わらず、平民同士でも自他の目覚めが余分なものをつくるきっかけになっていたのではないだろうか。
もう一つ考えられるのは神(自然感・死生観)との関係だ、人間社会には常に人智を超えたところに神がいた、その神と「つながるため」につくらなければならないモノがあったのだ。そのモノは神を象徴するに留まらず、社会をまとめる役割、ヒトと神とつなげる役割、自分と内なる自分をつなげる役割、を担っていたのだ。

 
今日の結論として
「生きるために」物質的に満たされるために。「つながるために」心が満たされるために。さらにそれらが「維持」されるためにつくっているのだ。つまり、生命は「生きのびる」ためにつくらなければならないのだ。
どうだろうか?

らしさ

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魅力的なモノには、なにか“らしさ”みたいなモノが宿っている。よく個性的とか、オリジナリティーがあるとかそんなチンケな言葉で評される。でも実は、ほんの些細なモノでもその人“らしさ”ものがにじみ出ているものであり、個性やオリジナリティーなどというものよりもっともっと大切にしなければならないことなのだ。

 
学生の頃。石彫の課題で直径30センチぐらいの球を掘らされた。当時バカな学生だった私は、無責任でテキトーな仕事をしたことを覚えている。何年もたって後悔しても始まらないのだが、一見、簡単にみえる仕事にこそ自分“らしさ”を表現するポイントは沢山隠れていて、まさに自分を掘り下げることができるチャンスでもあるのだ。当時、出来の悪い生徒だったので、まったく課題をくみ取ることが出来なかったのだが、何年もしてその意味に到達できたのは、当時テキトーに過ごした数日間があったからこそで、今となっては、そんな課題を出してくれた学校と、講評のときに美しき珠をみせてくれた旧友たちに感謝するとともに、自分の中に教訓として組み込まれている。

 
勘違いしてはいけないのだが、モノづくりは、自分“らしさ”を表現することが目的ではない。モノづくりを追い求める過程で“らしさ”が自然とにじみ出てきてしまうものなのだ。それは、裸の自分のようでもある。であるからして、面白くもあり、憂慮しなければならないのだ。真面目に取り組む姿勢こそが、いい意味で“らしさ”を呼び込むことにつながるのであり、テキトーという自分“らしさ”が定着してしまっているのであれば、その時点で失格であり現場から退場すべきなのだ。

 
前置きが長くなってしまったが、今日は“らしさ”を呼び込む4つのポイントについて考えてみた。

 
“予見的認識”
若いとき、自分のアトリエを持つことが第一の夢だった。自分が何かをつくり続けられる環境を手に入れたかったのである。相当いろいろな人に迷惑をかけたし、助けてももらった。そんな仕事場があるのに、つくり続けることと止めてしまうこととの瀬戸際を日々歩いている。こんな文章を書いているのもつくり続けるための一つの手段なのである。年齢的なものもあるかもしれないが、アートとデザインから美術とモノづくりへと思考を変えようとも思っている。それは、自分の将来のこともるし、社会の変遷に一役買いたいという思いがあるからだ。時は流れているのだ。すべて、これからのことを考えてのことなのだ。

 
“美的五感”
いわゆる、視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚、といわれるものから、美しさの感じ方は人それぞれである。美しさに触れた数だけセンスがよくなるはずである。しかし、美という概念は不明瞭な点が多すぎていけない。均整がとれたものには、ある程度の法則がある、その法則を学べばそこそこ美しいものはできるだろう。だが人の感性は、実は法則だけで支配されているものではなく、超常的なもの影響されている、常に自己存在とそれをとりまく環境の関係において揺れ動いていているのだ。だから世の中、美しいが魅力を感じないものが大半なのである。だから美に対して常に疑いを持つべきだ、なにが美しいのか?常に問うのである。その日その時、美しいと感じてしまった自分を分析し、それが他人にも共感できるものか、将来的に美の法則として成り立つものなのかを常に考えている。

 
“身体的考察”
一時、陶芸にはまったことがある。その時に感じたことは、“手という道具”の偉大さだ。ロクロ場に行くと年配のうまい人がたくさんいた。未熟であった自分は、一生懸命、ツワモノのつくりを真似てロクロをひくのだが、あこがれのカタチには絶対にならない。普通の人よりはカタチをみる目はあるはずと自負していたのに同じようにやっても微妙な違いがあるのだ…。一見ほぼ同じでも絶対なにかが違うと感じるのだ。再度、ロクロをひいているツワモノの姿を端でつぶさに観察してみていると、「こうしよう、ああしよう。」という意思があまり感じられない、本当に自然体で土に向かっているのだ。そして自分との大きな差に気づいたのだ。“手”である。手の大きさやカタチ違うのである。あたりまえと笑ってはいけない。寸法を決めて図面どうりにつくったとしても手が触れる箇所は、その人のカタチにしかならないのである。それを考えると“手という道具”を鍛えつつ、素直に使うことを心がけなければならないのだ。

 
“合致的品質”
最終的にモノに落とし込むときには、完成度が求められる。どんなにすばらしいアイデアであっても、それを相手に伝えるときにボロボロの制作物で伝わることは、まずアリエナイ。仕事はキレイで当たり前なのだ。自分の意思が100%詰まったものを目指すのだ。現場ではプリンタで偶然ついてしまった小さな点も許されない、チェックを重ね、もしそんな落ち度があったらそれを修正するのだ。当然こんなことは最後の仕上げである、その前にすべきことが沢山あるのだが、最後の仕上げにどれだけ気を配っているかによって99%から限りなく100%に近づけるのだ。だからモノをつくる人は、細かいこだわりを持って、ひとつひとつを積み重ねている。

 
らしさにつながる4つのポイントをだしてみた。
ここまで書いて恥ずかしいが、上に書いたコトは、何一つとして出来ていない、ただの理想像だ。でも理想があるからこそ、それに近づこうとする意思が働く。今日する仕事にまやかしが無いか自分につきつけなければならない。

 
そこのキミ。キミがつくるものは、キミにしかつくれない。
それは、キミらしさが良くも悪くも働くからだ。オッサンは、本当のキミらしさがみたいのだ。
是非“らしさ”を究極まで追求してほしい。
オッサンもまだまだ、がんばるゾ。

非言語・暗黙知

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最近、非言語や暗黙知をビジネスに活用せよ!という流れが出てきている。大きな2つの潮流だ。

 
1つめは、動物的なヒトの習性を利用して一儲けしようゼ!というもの。極端な例は、ヒトは赤色には反応するから、この売り場には赤い商品を並べたら売れますョ、というもの。言葉では表せない、共通認識みたいなもの、思わず反応してしまう事をなんとか探り当ててモノを売ろうゼというもの。どうも、魚釣りの疑似餌みたいな感じで…なんかバカにされている気がしてくるのだが…。けっこう研究されているようである。

 
もう1つは、いわゆるプロが集まって非言語・暗黙知領域を探ろうゼ!とする流れだ。かつて、モノづくりの現場では、個人ひとり一人が自分の非言語・暗黙知領域にたどりつき、そこにある共通認識らしきものを探し出してくることが仕事だった、しかしながら、その手法も情報過多による、やりつくした荒廃感があるということで、みんなで仲良くワークショップなどをしながらファシリテータをたよりに効率よく非言語・暗黙知から発見されたコトバを次のモノづくりに活かそうゼ。とする動きである。多くの合意をもとにモノづくりに励むのだ。

 
最近のモノづくり終焉に、非言語・暗黙知の軽視が1つの理由であるとするならば、人間の奥深さへの探究をもう一度、クリエータなどと呼ばれる人たちが再考すべきであろう。最先端の研究者が仏教に目ざめるというようなことも探求心に由来するものではないだろうか…?

 
様々な知識や経験を詰め込んだ人の非言語・暗黙知を探ることは興味に値するが
薄っぺらなヒトから抜き取ったそれは、動物性を浮かび上がらせる。
どうも、最近の傾向は後者を連想させる。
人がつくりだすモノは、その人の感じが在るハズだ。

bookcover

bookcover

 
今年からシステム手帖をやめようと思い
薄いノートっぽいやつを購入した
表紙があまりにもビニールなので
あまっていた布でブックカバーをつくってみた

 
相方さんから試作品?と言われた…

修行時代

「こんなコトをやってて、何の“意味”があるのですか?」

 
モノづくりの過程において、その“意味”をつくる前に知ることはできません。
それが何ものか解らないから手を動かすのであって、つくった後にモノを眺めて自分が何がつくりたかったのかを始めて知るのです。
しかも、それに気づくのには、ずいぶんと時間がかかるものなのです。
さらにモノづくりは、自分のためだけにするものではなく、他者のためにするものでもあるのですが、
他者がそのモノから、便利とか安全とか如何にもそれを望んでいるかのようなことではなく、
もっと深い部分で何を得たのかということも、すぐに知ることはできないのです。

 
消費社会の中では、自分では何も発想せず。何もつくらず。目の前にあるモノを、お金を使って手に入れ、
その時点でのパフォーマンスが最優先されます。ですからモノをつくる人自身が消費社会にどっぷりと浸かっている場合、
そこから魅力的なモノなど生まれ出るはずなど有りえないのです。

 
消費の特徴は、無時間性にあるとも云われています。無時間性とはすぐに結果を求めるということです、じわじわと体質改善をするより直ぐに効く劇薬を求めているのです、ですから結果がみえないことに手を動かすなどということは有りえないのです。

 
私たちは、今、消費に押しつぶされそうになっています。一人ひとりが消費者ではなく“つくり手”であることを強く心に刻んでおく必要があります。
モノづくりの過程で、「解からないことは、解らないままとっておけ!」とよく云われます、“つくり手”は、まだ未知数である解らないことにも挑戦するのです。それは、時間とともに経験値があがり解ることもあるからです。そして解決を手にした時に、他者を巻き込んだ喜びを得たいのです。

 
そこのキミ、私も若い頃、同じように「こんなコトをやってて、何の“意味”があるのですか?」という疑問を持った。
でも、手だけは動かした、そこには、“つくり手”としての修行や経験が詰まっているのじゃ。
そして今でも意味が解らないことに取り組むのは、“つくり手”としての態度だと思っている。
だから、負けないでほしい。

アイデアをだしきる

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【defines.jp】を思いつく発端にブルーノ・ムナーリの『モノからモノが生まれる』を読んで触発されるものがありました。
モノづくりの一連の流れの「問題P」(problema)から「解決S」(soluzione)に向かうのに何が必要とされるのかが順番をおって分析されています。まず最初に出てくることはPとSの間に「問題を定義することDP」(definizione del problema)ということが書かれています。つまりは、目の前の課題にどのような問題が隠れているのかを察知する力を身につけ、そして解決に向けた行動にうつしてゆくことなのです。

 
ただ、問題を定義せよ!と言われても。どこからどんな風にそれをやっていったらよいのか見当がつきません。そこで、この本のなかに描かれていた図を少し発展して、今風に私なりに少しまとめてみました。アイデアを出すときに自分が考えたアイデアがどこに位置していて他のアイデアとどのような関連を持つのか、まとめるのに役に立つのではないかと思います。

 
まず、目の前に課題に対してある程度の「情報・学び」を持っているか?確認してみる必要があります。最近は常識とか普通という概念がもはや消失している現場が多く、この程度の情報をもっているのは普通だろとか、このくらいのコトができるのは常識だよねとか、そんな言い草がまったく通じなくなってきています。自分も人のことは言えませんが、日頃から何気なくこれらに触れていることがモノをつくる人の常識だと思うのですが、課題が与えられてからの深い情報収集と学びのノウハウを確立する必要があるのでしょう。ただそれらに頼って積み上げ式でモノゴトを考えてゆくフォアキャスティング的な考え方だけではなく、アイデアを飛ばして離れた位置からそこにたどり着くために何をしたらよいのかというバックキャスティング的な発想も求められています。それらの要素を洗い出し、課題に対しての解決の落としどころを見つけ出してゆくことが求められています。

 
そこのキミ。課題に対しての解答は一つではない。どんな簡単にみえる課題でも様々な解答がそこには隠れているはずだ。それを見極めようとする意思がモノづくりを前進させる原動力なのだ。そして自分なりの解答をいかに導きだせるか?常識をぶち壊してみるのじゃ。

面白がる

私の仕事ってなんだろう?と思います。
周りから、訳のわからない仕事を押しつけられて…。
これって私の仕事なのだろうか?と疑問に思うことが多々あります。
でもイザ、「私の仕事は、○○です!ですから、残念ながらそのような仕事は、お受けることができません。」と胸をはって言うには、おこがましいし、自信もない。そんなわけでズルズルとめんどうな仕事に渦に巻き込まれることになります。

 
おおかた、そんなコトをしていると、雪だるま式に追いまくられ、あげくに、心とカラダがやられて悲惨な目に遭うことは想像に難くないのです、ですから、ビビってなるべく仕事から逃げようとするのですが…、捕まってしまった時はあきらめることにしています。

 
私たちの役目って何なのでしょうか?

 
苦しい思いをしても、モノを世に送り出し、そのモノによって、何がしかの人の役に立ち、少しは社会と関わる。そして、その対価を受け取り、生きてゆくために必要なモノを手に入れる…。そのようなことだと思うのです。

 
「私の仕事じゃないんで…。」と言って、簡単に仕事から逃げてしまうことは簡単かもしれません。余計なことはしたくないということも分かります。でも、自分の趣味と合わないことや興味が無いことでもイヤイヤではなく、面白がってやってみるべきなのです。正反対の価値感だなと思うものでも、とりあえずその価値感を理解し面白みを見いだしやってみましょう。たとえ、アホらしい単純作業だったとしても、自分でゲームのルールを決めて、面白がれる仕事の進め方に変えてみましょう。

 
そうすることでオノレの引き出しは増えていくのです。人は未知の世界に挑んでいるときに輝けるものなのです。一見、簡単そうに見えても、実は奥が深い物事は沢山あります。人は自分が動くことで初めてそのことに気づくのです。

 
そこのキミ。これは、全員に強制するものではありません。これは生き方の選択なのです。
もし、豊かに生きたいのであれば、面白がるとはなにか?面白がって仕事をするためにはどのようにしたらいいのか?一度、ゆっくり考えてみて欲しい。きっと、そのためにすべきことは、山のようにあるはずなのです…。その山が宝の山かもしれないことを意識してみると少しは前向きになれるのかもしれませんネ…。

問題設定力

130918

ある日、「ものづくり」とか「学び」とか…悶々とググってた。
そしてヒットしたのが自由大学。
そこで目にしたのは「学びのキュレーション」という考え方。
んー。「defines.jp」で取り組んでいきたいビジョンとかなり近いゾ。

 
というわけで、おそらく自由大学の学びの中心にある「キュレーション学(初級)」という講義がこのタイミングで開かれることをゲットしたのでした。そして、すぐに申し込みをすませたのでありました。

 
ファウンダーでもあり教授の黒崎さんはキュレーターの本質を「問題設定力」だと定義された。「それは、問題を解くコトではなく、オノレの美意識の中からわき上がる疑問を問い。ユーモアセンスにとんだ問題設定をするコトなのだ。」とおしゃた。
ここでの美意識やユーモアセンスにも、これという解答はない…。そこは不測定多数が感じるところなのだ…。

 
新しい学びをつくりだすために先進的な試みはすでにおこなわれている。

 
そして、私は復習の時間。。。

 
そこのキミ。自由大学でググってみて!

よい製品とは何か

20130705
本選びの神様が時々、降りてきてくれます。

 
昨日もdefines.jpのことで本気で悩んでいたのですが、本屋にいってブラブラしていると目の前にこの本が輝いていました。

 
『よい製品とは何か』(ジェイムズ・L・アダムズ/2013年)

 
本書は、モノづくりについて書かれた本ですが。
defines.jpで考えていきたいことがほとんど網羅されています。

 
①製品と品質ー品質とはどのように考えられてきたか
②品質向上をさまたげるものー偏った狭い考えと慣習
③パフォーマンス、コスト、価格ーそれはお買い得か
④人になじむ製品ー問われるヒューマンフィット
⑤クラフツマンシップーつくり手の喜び、使い手の喜び
⑥製品、感情、欲求ー好き?嫌い?それともつまらない?
⑦美、エレガンス、洗練ー経験によって得る見識
⑧象徴性と文化的価値観ー我々は何者なのか
⑨地球という制約ー製品が地球と人類に及ぼす影響
⑩結論ー本書で学んだこと、今後すべきこと

 
ざっと一度読んだだけですが、読者に考えることを示唆している内容が特に素晴らしい。
とにかく、これからのことを考えることが必要なのです。これからジックリと読み込んでいきます…。

 
そこのキミ。これは教科書だ!学びだ!是非購入を!