問題設定力

クリエイティブを語るうえで、「価値を創造するのか?問題を解決するのか?」というような言葉をよく耳にするようになった。人がまだ気づいていない盲点を見つけ出し、その盲点から発想し、モノゴトをつくる。つまり価値ある問題をみつけ、それを解決するための創造をすることが優等生というのだ、価値ある問題とは、より多くの人が感じてはいるが気づいていない事象ということになり、そして創造的な解決というのは、より多くの人が共感し、笑顔でそれを受け止めるということになる。が故に「気づき」という言葉が多用され、皆が「気づく」ために躍起になっている。

 
しかし、何かそんな方程式に違和感を感じる、人間味が感じられない…。なぜだろうか?

 
社会や人は変化し進化し続けなければいけない、昨日までの自分では許されない空気がある、その為に人は努力し、いろいろなモノゴトを学び、自分自身をバージョンアップさせ、より多くの「気づき」がえられる人間になり、人や社会のために貢献しなければならないという強迫観念にとらわれている人が多い。さらに働き方を変革し、余裕がある生活の中から、もっともっと「気づけ!」とせっつかれているようだ。まったく手に負えない状態なのである。

 
しかし、発想の原点での「気づき」はやはり必要であろう、問題を発見することも必要だが創造・解決するときに、発想の転換に「気づく」ことこそが必要なのだ。だから虫眼鏡で必死に観察することに集中することなく、鳥のように大空からゆったり眺めることも必要なのだ。

 
例えば悩んでいる人がいたとしよう、問題点はその人の「悩み」である。そしたらその人の困っていることを根掘り葉掘り聞き出し問題点を発見して、自己啓発本を読み漁りアドバイスし、解決してあげるのが解決だ。だが、それは得策ではないと思う。自分なりに問題を設定し直し「その人を幸せにしてあげたい」としたしよう、そうすれば一緒に馬鹿をやって心から遊ぶコトも手なのだ。その遊びの中から解決できるかもしれないじゃないですか?だから、つくるということは、「問題」ではなく「問題設定」なのですよ。

 
だからそこのキミ。「無理して気づける自分に変身することなどせず、そのままでいろいろなモノゴトに接して、ボーっとしてればいいんじゃない。」という軽いノリも時には必要ではないのかな?でもボーッとしてるヤツは「気づいた」方かいい!キミはどっちだ?

 
そして「問題を設定する=define」というのがこのブログの大きなコンセプトだったりする。
そして、「気づいてばかりいないで気づかせろ!」と言いたい。