book

お詫び

ブログを消去してしまいました。
なんとか、カタチを整えることができましたが。
過去の写真は、復旧できないところもあります。
まあ、自分の忘備録なのでありますが…
心機一転アップしてゆきますので
これからもよろしくお願いいたします。

ボトルは語る

そこのキミ。飲みの席で「あの本について聞かせてください!」と投げてくれれば、秘密の話を語りましょう…。

 
先輩の本『ボトルは語る ものがたりをデザインする』(三石 博/2014年)が出版された。

 
たぶん先輩達がやってきたコトを真似することは、今はもう難しいと思う。
本当は、現状に翻弄され流され続けている人に読んでほしい一冊だが、多分そんな人が目を通すことなどないのだろう。でも、そんなことに辟易して、この時代の変わり目に新たな息吹を吹き込むチャンスを固守淡々と狙っている人にとって、この本は絶対に刺激になるはずだ。

 
多くを書き綴りたいところだが、今日は宣伝だけです。
是非、ご購入を!

 

世界は音

翌日。ライブに来てくれた人から
「余韻はありますか?」と訊かれた。
その時すでに、静寂は掻き消されていた…。
でも、それはそれでいい。
「個人が問われているのだ…」

 
『よい方向に向かうためには、意識の変革が必要である、そのために私は、人に伝える努力をしている。』多くの人がそのような意思表明をしている。しかし何十年も前にこのように書かれた本を読んでいると虚しさがこみ上げてくる。「なにも変わっていないどころか、悪化しているだけではないか?」結局のところ『意識の変革を求める』なんてことは、独りよがりのマスターベーションにすぎにのだ。では、何かを変える為にはなにをしたらよいのだろうか?政治か?教育か?娯楽か?情報か?モノづくりか?どこから手をつけたらよいのだろう?何かを変える為には誰に伝えたらよいのだろうか?家族?周りの人?問題意識や興味を持っている人?権力者?大衆?市民?その人たちは自分の思い通りに動いてくれるのだろうか?
『個人が問われている時代だ。』このようなことを言う人もいる。今の私はコチラの言い分の方がシックリくる。

 
先日、「太陽光発電音響装置計画(Solar project in garden)」の第三回目のプレゼンテーションを行った。電気と音を軸にした大崎leとういうスペースだ。誘ってくれたのは、中田粥さん。ふとしたきっかけで知り合ったのだが、彼がブッキングしている『悟性・超Nakedダシ 』というイベントだ(意味シンなタイトルだ!)。お客さんは、音楽家や電気装置をつくっている人たち。自分がやっているコトの解説と実際に音をだしての演奏(?)をおこなった。

 
数日前から読んでいた本に何度も出てくる「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」禅の問いである。心はその言葉に支配されていた。演奏で注意したのは、音が出るまでと音が消えた後の静寂を意識することと空間に流れている音との調和だけ。昨年の大失敗から、新たに改造したり付け足した機材は不安なく動いてくれて、出したい音を瞬時に出すことも、ある程度できるようになって、この時点では最高の出来だったのではないか?(自画ジーサン笑)と思う。

 
もう、這々の体である日常。『意識の変革を求める』なんて余裕は無い。死に行く日々の中で『個』としての生命をまっとうできるのか?もはや世界はそこまで追い込まれているのだ。

 
そこのキミ。
「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」
世界は音―ナーダ・ブラフマー

アート・スピリット

そこのキミ。たまには本を読んで応援されてみてはどうだろうか?
少々ウザイかもしれないが…。

 
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“ただ受け取るだけなら、奴隷でもできる”

 
“美は物質ではない。美は模倣できない。美は見る者の心に生まれた快感の感覚である。美しい物があるわけではない。だが、すべての物は、それを見て快感を起こすような、感受性と想像力にあふれた心がやってくるのを待っている。”

 
“この世の自由な人びとは、さまざまな方法で自分にとっての美を発見し、人に伝えようとする。”

 
”現代人は奇妙な文明に生きている。現代人の理性と魂は恐怖や人工的なものばかりでいっぱいになっており、そのせいで美に気づかないことさえある。世界が抱えているあらゆる厄災の元凶はこの恐怖であり、真実とじかに向きあえる視野の欠乏である。”

 
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今、私たちに求められていることは、『自分が表現したいモノをつくることではなく、皆に必要とされるものをつくること。』となってしまった。それは本来、つくり手として批判されるべきことであるのだが、それがまかり通っている。

 
全ての人々は、モノに対して消費者であり、批評家でもあり、無意識に自分に従わせようとする。そして民主的に多くの人が“いいね”というものがよしとされ、どうでもよいものは淘汰されていゆく。少数派は切り捨てられ、埋もれている美意識が大切に育てられることは無くなった。それは、消費には関係のないことだからだ…。

 
元々『どうしてもつくりたいモノ』を持っている人など世の中で微々たるものだ。モノはすでにあって、新たにつくり出す必要性など感じることも少ない、『つくらされているモノ』と『つくりたかったモノ』の判断すらできないほど、システム化された消費のなかでアートやデザインは終焉を向かえているのだ。このような状況下で「人間にとってモノづくりは、生命活動と直結している重要なことなのだ。」などと叫ぶことは、お笑いぐさでる。感受性や想像力といったものが軽視され、合理性や利便性を追い求めてきたことのツケに気づいている人は、ごくわずかであろう。

 
”自分が本当は何が好きなのかを知るのは簡単ではない。このことについて、自分を騙しながら一生を送ってしまう人も大勢いる。たいていの人は、生きながら死んでいる・・・” 80年前のこの言葉は重い。自分を見つめる力は退化の一途をたどるばかりである。もちろん、自分を見つめられない人が他者に向かうことなどありえない。もはや、生きながら死んだ人間に囲まれた荒んだ社会が進行中なのだ。

 
今、このような本が出版されるということは、絶望に沈む「つくりたいモノ」を持つ人への励ましと受け取れる。つくり手の孤独な戦いは、ますます過酷になってきていることを自覚せずにはいられない。

 

時は金ではない

「時は金なり」とはよくいってくれたものだが、この言葉には、いささか不信感をいだいたほうがよさそうだ。

 
「時間資源を有効に使って、ワークとライフのバランスをとってください」この言葉も一見そのとうりと、うなずいてしまいそうになるが。不幸に導く大きな危険性を孕んでいる。

 
モモという物語の中で「時間貯蓄銀行」と称する灰色の男たちによって人々から時間が奪われていく、そうすると、皆の心から余裕が消えてしまうのだ…。しかし、物語ではモモが見事に解決に導いてくれるのだが、現実世界では盗まれっぱなしなのである。
時間資源(時は金なり)という発想はおかしい。本来、時は私に与えられた財産である。無駄に使おうと有意義に使おうと勝手であるはずなのだが…。時間とお金の価値を同一視したところから人類は大いなるあやまちを犯し、そのあやまちに気がつくどころかどんどんとその罠にはまってしまったのである。

 
本来、時とお金は同等であるべきでは無い、それは、人間は生産のみに生きる動物ではないことと、人間にとっての価値の全てがお金に換算できるというのは大きな間違いである。

 
仕事の効率を考えてより生産性を上げるために時間の使い方を定義することは、一見グッドアイデアにみえるかもしれない、でも、結果的にマニュアル化されたロボットのような人材を量産することと手抜きされたモノを生み出す元凶になる。これはよく考えれば解ることである。「効率化された労働から生み出された余裕のある時間でもっと創造的で有意義な仕事をすべきだ」というロジックは一部のスパーマンにしか通用しない。目の前にある仕事をいかに丁寧に有意義に取り組むかを考えたほうが幸せになれるハズである。人が本来もとめているものは、人に優しいことだけではない。美しく生きることは、そういうことではないのだ…。

 
そこのキミ。時間は人々に平等に与えられた貴重なものである。それは人生において何物にも代えがたい独立した要素であると考えるべきだ、お金に換算する意外の価値を見いだしてくれたまえ!たとえキミがスパーマンであったとしてもだ。

 

よい製品とは何か

20130705
本選びの神様が時々、降りてきてくれます。

 
昨日もdefines.jpのことで本気で悩んでいたのですが、本屋にいってブラブラしていると目の前にこの本が輝いていました。

 
『よい製品とは何か』(ジェイムズ・L・アダムズ/2013年)

 
本書は、モノづくりについて書かれた本ですが。
defines.jpで考えていきたいことがほとんど網羅されています。

 
①製品と品質ー品質とはどのように考えられてきたか
②品質向上をさまたげるものー偏った狭い考えと慣習
③パフォーマンス、コスト、価格ーそれはお買い得か
④人になじむ製品ー問われるヒューマンフィット
⑤クラフツマンシップーつくり手の喜び、使い手の喜び
⑥製品、感情、欲求ー好き?嫌い?それともつまらない?
⑦美、エレガンス、洗練ー経験によって得る見識
⑧象徴性と文化的価値観ー我々は何者なのか
⑨地球という制約ー製品が地球と人類に及ぼす影響
⑩結論ー本書で学んだこと、今後すべきこと

 
ざっと一度読んだだけですが、読者に考えることを示唆している内容が特に素晴らしい。
とにかく、これからのことを考えることが必要なのです。これからジックリと読み込んでいきます…。

 
そこのキミ。これは教科書だ!学びだ!是非購入を!

失われたモノと未来

週末の2冊の本に目を通しました。
『失われた手仕事の思想』と『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』です。
一方は20世紀後半に我々が時代の流れの中で終焉を向かえたモノづくり(職人の思想)について。そして、もう一方はすでに始まっているモノづくりの新たな潮流について。注目したいのは、“作り手のコミュニティー?と自然や社会環境のなかで穏やかなモノづくりがなされるのかどうか?ということ…。その可能性についてです。

 
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同じことは自然観にもいえる。自然保護や共生、還元する自然という言葉が飛び交っているが、どこか一部だけ を元に戻すことはできない。手仕事の時代の基盤は人々の生活からすべてが生まれていたのである。生活が変わってしまったのに、都合のいい、聞こえのいい部 分だけを昔に戻そうというのは無理というものである。
私たちは手仕事の時代を終焉させてしまったのである。
それなのに、今現在、手仕事の時代に代わって進もうとする方向性は指し示されてはいない。まだ、行く道のわからない迷い道の途上である。
そんな時代でも、私たちは昔ながらに、友人や家族や学校という社会の中で生きている。人間同士の関係や結びつきに対してのルールは、世代間で揺らぎがあるが、竹のざるを使い、木造船で漁をし、茅屋根の家に住んでいたころのままである。
春が来れば桜を愛で、秋には紅葉の美しさにため息をもらす。土用を過ぎたら木の水揚げが終わり、冬支度に入るから木や竹を切る季節が来たと考えていた職人たちと同じ季節感で生きている。
建材の切れ端を拾えば、手にとって匂いをかぎ、そうした家に住むことを心地よいことだと思う心がある。
自然との共生をやめた人間たちは、新しい素材と品物に対する新しい思想と生活習慣を手に入れなくてはならないだろう。
今は次の時代の思想を確立するまでの過渡期の時代であるが、いずれ橋が架かり、次の時代に新しい人間関係や物、自然に対する安定した考えやルールを手に入れるだろう。
人間はそんなに愚かではなかった。『失われた手仕事の思想』(塩野米松/2001年)

 
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いま僕らが目にしているのは、新しい時代の家内工業への回帰だ。新たなテクノロジーは、人々にふたたび生産手段という力を与え、草の根からの企業と分散されたイノベーションを可能にした。『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』(いま僕らが目にしているのは、新しい時代の家内工業への回帰だ。新たなテクノロジーは、人々にふたたび生産手段という力を与え、草の根からの企業と分散されたイノベーションを可能にした。

 
メイカームーブメントには、三つの大きな特徴がある。(中略)①デスクトップのデジタル工作機械を使って、モノをデザインし、試作すること(デジ タルDIY) ②それらのデザインをオンラインのコミュニティで当たり前に共有し、仲間と協力すること ③デザインファイルが標準化されたこと。おかげでだれでも自分のデザインを製造業者に送り、欲しい数だけ作ってもらうことができる。また自宅でも、家庭用 のツールで手軽に製造できる。これが、発案から企業への道のりを劇的に縮めた。まさに、ソフトウェア、情報、コンテンツの分野でウェブが果たしたのと同じ ことがここで起きている。『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』(クリス・アンダーソン/2012年)

 
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モノは人々の生活を大きく変えてきたのだ、これから先ももっと大きな変化が起きるかもしれない。
その時に必要なことは“新しい人間関係や物、自然に対する安定した考えやルール”つまり思想を語ってゆくことだと思います。
そして新たな職人の時代がくるのだろうか?

 
そこのキミ。この2冊オススメですゾ。

モノには心がある

「道具寺道具村」のコンセプトを直接聴いたのは、確か2007年ぐらいの時でした。

 
そのとき、「道具とは道を具するものである」という言葉をききました。道を備えているものがすなわち道具であると、例えばハサミはモノを切る道具であるとともに、なにかの道を究める道具でもあり、生きてゆくための道具なのだ。ということなのだと心にメモしました。
モノづくりの頂点にいる人が残りの人生をかけて訴えかけてくる内容に胸がえぐられるような思いがしました、今思えばそのことがdefinesに行き着く発端のひとつだったのかもしれません。先人たちから、私たちが何を引き継ぎ、何を残してゆくか…。

 
『私は「モノには心がある」ということをずっと言っています。これは、いまもって大変な課題ですが、厳密に言えば、「モノに心が生まれるようになる」ということです。
最初は心はなかったけれど、生まれるようになってしまう。自動車でも、最初はなかったけれど、これだけ上等になると社会を変革します。その変革をする時に公害が出てくるわけです。その公害を起こすときの、その心根というのが、おそらくーおそらくとあえて言いますがー、自動車の心根がそういう表現をしている。つまり言葉がつかえないから、公害ということを通して、警告を発しているわけです。「気をつけなさい」と。
言葉があれば話ができますが、言葉がないから公害を出すことによって、相手をして感知せしめる。その意味で心が存在する、と言うわけです。
水もそうです。水を汚して、汚染された水を飲んで病気して、おなかを壊して初めて、水の大切さが分かるわけです。そこで水の意味が分かるというのは、水がそういう心を持っているから、あえてそうやって、われわれに分からせているわけです。
最初から心があるわけではない。それは後になってから出てくる。人間がモノや道具を作る。そうして、しばらくして心が生じてくる。やがてそれが、繁栄と破壊をもたらす。
例としては自動車が良い例です。確かに今の時代の繁栄は自動車が担っているのでしょうけれど、一方で、むしろ自動車そのものが、事故はもちろん環境汚染とか公害とかを引き起こしているわけです。あえて言うならば、その心をよく理解しないと、自動車という意味を理解しないと、われわれは自動車にやられてしまうわけです。
警告を発しているときに、モノに心があるとわかれば、そういった問題が起こったときに、実感が出てくるというか、自らのこととして考えることができる。環境汚染が起こっても、そういう気持ちをもたないと、気がつくのが遅れてくるのです。それは、心があると思えば、いろいろなものが明らかになってくる。その作り方も、対応の仕方も、処理の方法も、確かに解き明かすことができるはずです。
日本では昔から、針供養とか包丁供養とか、あるいは人形供養とか、ずっと行われてきました。いまでも行われています。それは、そういうことではないでしょうか。モノや道具に、心はあるということです。

 
ある日、広島の原爆の焼け野原で、モノというモノがひしゃげて壊れていた。
それは、人間のようには逃げられないというモノ自身の特性があります。ですから二輪車だとか、そのままひっくり返って焼けてしまう。けれど、形骸は壊れたまま残っている。普通ならそのまま残っていると、必ず人間が、ちゃんと直したらいいだろうと、おそらく思うはずなのです。
ところが、そういう非常事態ですから、もうあきらめてしまう。もう一度直せば使えると思うよりも先に、真っ直ぐに、元の元気な姿に戻ってほしいという感情が出てきたのでしょう。そういう感情が出てきたことで、ひしゃげて壊れたモノが「直してくれ、元にしてくれ」と叫んでいる、そのように聞こえたというような。これはごく自然のことだ、という思いです。そういう意味では、これは何も広島ばかりでなくて、戦災にあったどこの都市でもそうだったのでしょうけれど。
たまたま焼け野原の中に、ひょこっっと自転車の形骸でも、電車の形骸でも、浮き立っていると非常に目立ちます。まったくの焼け野原に、焼けただれた電車だけが残っている。他には何もない。そうすると、その存在感は強烈なものがあって、それこそ闇夜に紛れて、電車が話しかけてくるような。
空襲とか原爆というのは、都市を孤独にしますから。人は全部殺されて、孤独の中で、人口の存在があるというのは、人間の孤独を癒すのに格好のことでもあるわけです。ですから、私の場合でも、人間はいなくなったけれど、そういうモノたちがいるというのは、確固たるつながりができたということだと思います。
人が作ったものを懐かしく思うことがあるでしょう。孤独なジャングルの中で、たばこの吸い殻でも落ちていたら、どんなに励まされ、力づけられるか。人の作ったモノを懐かしく思う、そういうのに近いです。私の場合は、そうしいうものにたいして、関心が強かったのでしょう。それが、モノの世界とのコンタクトの始まりだと言っています。そこでコミュニケーションしていた。そのまま、どっぷり入ってしまったわけです。

 
「モノ」を見つめていくと、だんだんと「仏」に近づいていくのです。もちろん、そのままですぐにそうなるということではなくて、訓練や努力を重ねていくうちに、モノがしだいに仏の姿に近づいていく。そういうことが重要だというような意味です。
よく「諸行無常」などと言うでしょう。いくらどんなものを作っても、いつかは消えてなくなるわけですが、そういうものを見定めてやるというのと、見定めないでやるというのは、だいぶ違うはずです。
「モノづくり」の人間ならば、モノを作るときに、どうせなくなるんだから、いい加減なものをとは言わないでしょう。そうではなく、なくなるものだからこそ、しっかりと作っていくというような。人間の心の中に、そういうしっかりとした姿勢を作ることが大事です。
それには、私の場合ならば、禁欲、修道というようなことです。鑑真和上の場合は、嵐にあって船が難破して、目が見えなくなった。けれどもそのおかげで、心の目が澄んだと言っておられます。
モノがよく見えるためには、どうすればいいか。モノがよく見えないと、良い、悪いがわからない。そのためには、モノがよく見えるためには、そういう禁欲的な、修道的な、多少きついことを実践したほうがいい。訓練し努力するということです。
人は、モノが見えていると、きついことをやったことなど忘れてしまいます。普通、モノが見えないときには、きつい、きついと言うけれど、モノが見え始めてくると、そういうことは全部、忘れてしまう。
禁欲し修道して、訓練することです。そんなふうにして、「モノ」の存在に、「仏」の姿が見えてくるようになる。自分が作る「モノ」に、豊かな「物格」があらわれるのです。

 
「モノの世界と人間世界」(エピローグ)

終わりに言い残したことを加えましょう。デザインとは、己が念じていることをかたちにすることです。インダストリアルデザインは工業力で増幅されます。ですから、良きにつけ、悪しきにつけ影響力が大きいのです。建築のように一品だけのものもありますけど。
モノの世界は人間の思う通りになるようですが、それには人間には不遜さがあって、必ずしも人間の思うようにはなりません。
時代は、モノの世界が人間世界の足りないところを充足することがあります。長次郎の黒茶碗とか、正宗の日本刀、日本の名建築などがそうです。あまりの深さ、美しさに、見る人自身の心の乱れを救ってくれます。また人の知恵によって、モノの未熟を解決することもあります。優れた民芸品がそうです。
そこがいいところなのですね。人間世界とモノの世界は絶えず対峙しています。モノの世界は人間世界に不足や不満を感じると、必ずといっていいほど、その報復が始まります。それがモノ言わぬモノたちのやり方です。
環境問題はその好例といってよいでしょう。汚染や交通事故は愚かな欲望を制御させているのです。それらは、言葉を使わないで警告を発しているのです。
ですからわれわれは、モノとの付き合い方が肝要です。あえていえば、地球から生まれているモノの世界は、人間の力を借りることがあります。だからといって、モノの世界は決して人間世界に従属しているわけではありません。あくまでも、モノの世界は人間を利用していると言ってよいのです。
したがって、モノの世界の効用は人間自身にかかっています。それだけに、モノ言わぬモノの世界とは、コミュニケーションがなくてはいけません。その時、かたちが生まれ、デザインになるのです。デザインには、それほどの重みがあり、人間自らによって築かれなくてはなりません。モノとの完璧なコミュニケーションが求められているのです。
八十年の生涯でさまざまなモノと接してきましたが、どれも必ずしもいい結果にいたるとは言い切れません。考古学的に言えば、七百五十万年前から、人間と道具は付き合っているといいます。ですから、モノの世界と人間世界の付き合いは、人間の二足歩行が可能になった以前より始まったことなのでしょう。いってしまえば、モノの世界と人間世界とは切っても切れない関係にあると言えるのです。
まさに「物心一如」という言葉が当てはまります。地球を人間の願望通りにすることは、容易なことではありません。デザインはまさに物心一如の、その一点の具現化に力を注いでいる、といっても過言ではありません。モノの世界と完全にコミュニケーションができるまで、人とモノとの関係、つまりデザインは、果てしなく続いていくことでしょう。
意外とモノの心を知ったつもりでも「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というようなことになりはしないでしょうか。つかまえたと思った瞬間に手からすり抜けてしまうのです。
「悉皆仏性(しっかいぶっしょう)」となるか、はたまた「悉皆物性」となるかは、永遠の課題です。永遠の課題は永遠に解決されないままでいるのが、人間として、生き甲斐なのではないかと思えてなりません。
人間とは何かと問われて、ギリシア以前から数千年たっていますが、モノとは何かという問いは、今ようやく始まったばかりです。人間とモノとの関わりを創るデザインを究めるには、これから数千年はかかるだろうと思われます。
デザインをして何が分かるのかと問われれば、それは、人間を知り、モノの心を究めることと同じであるということです。デザインは倦むことなく、人にインパクトを与え続けているのです。
私が念願としている「道具寺道具村」の建立が、人間世界やモノの世界、つまりは、人格や物格を追求する道場になればと、こころより祈ってます。』

 
『デザインに人生を賭ける』栄久庵憲司(2009)

 
そこのキミ、どうやらモノには心がありそうだなと感じてきたかい?