concept

Solar project in garden vol.68

先日、「太陽光発電音響装置計画」のプレゼンをした。おそらくまったく興味もない人たちの前での10分間のプレゼン、今までのプレゼンとは違うアウエーな場、何をどう話そうか思案した。TED風に実演も含めてカッコ良く決めたかったのだが、「9月1日。今日は防災の日です。」というところから話をするつもりが、出だしをすっかり忘れて、グダグダな感じになってしまった…。

 
というわけで3点のポイントを書き残しておきます。

 
まず、モノづくりには実験が必要な事。どんな知識の無いアホでも根気があれば何とかなる事。さらにMaker時代の今日、ネット検索で技術や知識が手に入り、それらの相互作用で欲しいものが市民レベルで自作できる事。とにかく、頭で考えた事をつくって試してみるのが面白い。それができる時代。
そして、プロジェクトを進める中で感じている事。「エネルギーはどこから来て、どこに消えてゆくのか?」それは、「私は、どこから来て、どこに消えてゆくのか?」という哲学的な問いや、「消費物がどこから来て、どこに消えてゆくのか?」という環境的な問い、「音はどこから来て、どこに消えてゆくのか?」という芸術的な問いなど、解決しきれない問いを含んでいるという事。
結果、プロジェクトを通して様々な場で対話できる幸福感。
以上。

 
んー。文章で書くと1分ぐらいで終わりそうなのに、なんで時間が足りなくなったのか?話すってムズカシ…。

 
というわけでライブに出演します!みなさま是非!

 
9月29日(木)MANDA-LA2
大島-片平-石原
大島 輝之(g.Bugeffects)片平 隆行(Modular Synthesizer)石原雄治(ds)
MUMU
清水一登(key)本間太郎(key)植村昌弘(ds)
open19:00/start19:30 ¥3000/3300+drink
http://www.mandala.gr.jp/man2.html

ゆっくり急げ

モノづくりの世界は大抵は時間に追われている。締め切りがいつでもすぐそこにあるのが通常だ、そんなことにならないように早く手をつけなくてはならないのだ、といったお説教もいいが、それが出来ないから困ったものなのだ。

 
「急がば回れ」急いでいる時ほど後でトラブルが起きないように仕事を進めた方が、急いでボロボロのモノをつくって後で修正を繰り返すよりも早くゴールにたどり着ける。とはよく言われていることだ。制作のプロセスがしっかりと確立されていれば、一つひとつの作業を丁寧に進めればいいだけの話なのである。

 
しかし、ルールのないモノづくりの世界では、いかに近道を探し出すかが重要になる時もある。そんな時は「ゆっくり急げ」なのだ。まず、制作に入る前に課題を整理する。何が課題の中で解かなくてはいけない問題なのか?問題設定を見直してみるのだ!人が言っていることが真の問題点ではないことが結構ある、そして真の問題設定力が実は肝なのだ、課題を問うことが真のモノづくりなのだ。

 
そのためには、まず「急いで考える」のだ、他人から見ると、とっと制作にかかれよ!と言われそうだが、そんなプレッシャーに負けてはいけない、ゆっくり考えるのだ。ここで言う考えるとは頭で論理的に組み立てるコトではない。とにかく手で考えるコトだ、頭で見えているモノを最速で手で書いてみるのだ、思考の図も必要だし、解決案も必要だ、いわゆるラフスケッチだ、頭で見えていたものが正しかったかどうか、何を加えればもっと良くなるのか、もっとシンプルにするためにはどうしたら良いかなどを手で考えるのだ。ラフの時点で2回転ぐらいさせるつもりで自己否定してみよう。そうすれば、何を制作しなければ(検討しなければ)ならないのか?アイデアが見えてきているはずだ。

 
そして、忘れてはいけないコトがある。アイデアが見えてきた時点で人に相談だ!急いでいる時は判断力が鈍る、いつもよりも丁寧に人の意見を聞こう。そして相談しやすいようにラフをまとめておけばもっと良いだろう。

 
ここまでくればだいぶ道が見えてきているはずだ、まず優先される道を行こう!急げ!Go!

Solar project in garden vol.67

 
太陽光発電のブームは去った?というようなニュースをあちらこちらで見かけるようになった。確かに自分でやっていることも始めた頃に比べると反応が薄くなってきているのがよく分かる。でも飛行機から下界を見渡せばブールーに光るパネルを多く見ることができるし、勤め先の新しいビルの壁にもパネルが設置され発電量が見ることができ、ずいぶんと生活に浸透してきたことが実感できる。しかし、問題点も多々ある。自然エネルギーとは言われるが、ちっともクリーンではない。経済性を優先すれば自然を搾取する方向に技術は流れる、例えば池をパネルで覆いつくしてみたり、山を削ってパネルを設置したり、環境や景観に対して危険視する声も多く聞かれれるようになった。

 
自分が始めたのはエネルギーを考えることがきっかけだった、空気も水も食べ物も花も虫けらも電気も石油も表現も労働も人にとって全て、いきるために必要なエネルギーなのだ。「いのち」というと少し宗教クサくなるが、「いのち」が育くまれるためにはエネルギーが必要なのだ。池を埋め尽くすパネルが野鳥やその他の「いのち」(生態系)を脅かしてはいないか?何を優先すべきか?の対話がしっかりなされた上での結果なのか?どうなのであろう…。

 
現代は経済至上主義の社会である、モノゴトの価値がそこを中心に測られることが多い、しかし、アドバスターズがクリエーターを巻き込んで反消費社会を掲げるように、人間様が本来の「いのち」(生存性)を認識する価値を測るすべも持たなくてはならない。ブームが去ってくれた方が感情的な部分を廃して冷静な対話ができるはずだ。エネルギーに触れた時の感動とは?エネルギーがより良く循環することとは?課題がデカすぎて答えもクソもないのだが、昨日、曇天の日に一日中モジュラーシンセをいじり倒し、翌日は太陽光で充電するのにじっとガマン…。これもひとつの解答なのだ!

問題設定力

クリエイティブを語るうえで、「価値を創造するのか?問題を解決するのか?」というような言葉をよく耳にするようになった。人がまだ気づいていない盲点を見つけ出し、その盲点から発想し、モノゴトをつくる。つまり価値ある問題をみつけ、それを解決するための創造をすることが優等生というのだ、価値ある問題とは、より多くの人が感じてはいるが気づいていない事象ということになり、そして創造的な解決というのは、より多くの人が共感し、笑顔でそれを受け止めるということになる。が故に「気づき」という言葉が多用され、皆が「気づく」ために躍起になっている。

 
しかし、何かそんな方程式に違和感を感じる、人間味が感じられない…。なぜだろうか?

 
社会や人は変化し進化し続けなければいけない、昨日までの自分では許されない空気がある、その為に人は努力し、いろいろなモノゴトを学び、自分自身をバージョンアップさせ、より多くの「気づき」がえられる人間になり、人や社会のために貢献しなければならないという強迫観念にとらわれている人が多い。さらに働き方を変革し、余裕がある生活の中から、もっともっと「気づけ!」とせっつかれているようだ。まったく手に負えない状態なのである。

 
しかし、発想の原点での「気づき」はやはり必要であろう、問題を発見することも必要だが創造・解決するときに、発想の転換に「気づく」ことこそが必要なのだ。だから虫眼鏡で必死に観察することに集中することなく、鳥のように大空からゆったり眺めることも必要なのだ。

 
例えば悩んでいる人がいたとしよう、問題点はその人の「悩み」である。そしたらその人の困っていることを根掘り葉掘り聞き出し問題点を発見して、自己啓発本を読み漁りアドバイスし、解決してあげるのが解決だ。だが、それは得策ではないと思う。自分なりに問題を設定し直し「その人を幸せにしてあげたい」としたしよう、そうすれば一緒に馬鹿をやって心から遊ぶコトも手なのだ。その遊びの中から解決できるかもしれないじゃないですか?だから、つくるということは、「問題」ではなく「問題設定」なのですよ。

 
だからそこのキミ。「無理して気づける自分に変身することなどせず、そのままでいろいろなモノゴトに接して、ボーっとしてればいいんじゃない。」という軽いノリも時には必要ではないのかな?でもボーッとしてるヤツは「気づいた」方かいい!キミはどっちだ?

 
そして「問題を設定する=define」というのがこのブログの大きなコンセプトだったりする。
そして、「気づいてばかりいないで気づかせろ!」と言いたい。

お詫び

ブログを消去してしまいました。
なんとか、カタチを整えることができましたが。
過去の写真は、復旧できないところもあります。
まあ、自分の忘備録なのでありますが…
心機一転アップしてゆきますので
これからもよろしくお願いいたします。

競争から協創へ

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モノづくりは、売れているモノを分析しそこからヒントを得るコトもよいが、そこにどのような対話がなされたかを分析することを忘れてはならない。今、魅力を感じるモノゴトには、多かれ少なかれ有意義な対話がなされた痕跡がある。表面的なカタチを真似をしたってかなうはずがないのだが。いまだに大半は表面的な模倣とか差別化とかに多くが向かっている。対話の技術を学べる場なんてものは少ないし、まだまだ発展途上なのだ。だからこそ可能性が眠っているし、開拓してゆく意義がある。そのためには、まず、つくり手が意識的に“競争から協創へ”という考えを沁み込ませていかなければならない。

 
グループワークやプロジェクトときくと、皆で喧々諤々、議論し喧嘩をして大変だ、そんなことなどしたくない。と感じている人が多い。確かにグループの中で個人それぞれが持つアイデアのどの案を通すかという時に自分が持っているものが最高だと思ってしまうのはしょうがないことだ。自分の案を通すために、そのアイデアの素晴らしさを力説し他者を蹴落とし戦うことが使命なのだと誤解している人が多いのだ。競争から協創へとモノつくりを進化させてゆくためには、他人が持っている知識や技術や勘を総動員して昇華させていくような対話してゆかねばならない。

 
しかし、さて対話だといって円卓テーブルについただけで全てが平等で対当な対話が成り立つと思ってしまうのは、大きな間違いである。みな自分の立場という席につき、建前から対話に入ろうとする、それは強い者も弱い者も皆同じだ。課題や問題が目の前にせまっている時、その認識が座る席によって大きな開きが生じてしまっているのだ。目の前に座っている人との断絶を感じるのも無理はない。「対話など通用する相手ではない。」「でも」「対話を続ける必要がある。」このような言葉を吐くべきではない。おそらく上記のような場合は、対話ではなく説得という言葉を明確に使うべきだ。上からも下からも目線の違う対話など成立するはずがないのだ。現状をみれば絶望的な結末を予想することしかできない。

 
では真の対話とは何なのであろうか?どのようなことなのであろうか?なんかすごい技術があるのだろうか?

 
対話をすることとは、コミュニケーションをとることではない。強い者は強い者なりに、弱い者は弱い者なりに自分ができることを探すのだ、お前はこうしろとかアナタやっといてとか、指示することではない。他者と自分と共感できる部分を掘り起こし、自分で自分のできることを探し、自らができることを実行に移すことに本来の意味があり、目的のために道筋をきめることが対話なのだ。どんなに小さなことでもいいから目的のために「一緒にやろう」と自らに約束することなのだ、説得し強要することではない。

 
表面的に対話という言葉が一人歩きしている場面をよく見かける、それは、自分らしさが一つも入っていない理想論をいくらやっても実行できることなんてひとつもないはずだ、でも無理矢理それをあたかも素晴らしい成果だというのも気恥ずかしい。自ら動くことにはその人にとって、いままでのやり方を捨て、天地がひっくり返るような大変なことだってあるのだ!それより何より、それ以前に自分が何者かというプロ意識みたいなものがなければ対話などするに価しない。

 
対話がうまくできるようになるためには訓練が必要だ、とくに日本的な和をもって人と接し、言葉の裏を探り合い、沈黙こそ美徳であるといったような中で対話をおこなうためには、よしこれから対話をするぞと無理やり自分の意識をそちらに持っていかなければならない。さらに個人個人が対話というものがどういうものかを知り、ファシリテーターとしての技術を学ばなくてはいけない、義務教育にも早く織り込むべきだと思う。

 
もう会議は止めて対話をしようと提案したいのだが、なかなか残念ながら理解を得ることは難しい、もっとそれについて学び、実践していかなければならないと思うのだが、そこのキミ、どうだろうか?対話の場はあるだろうか?

市場経済から市場社会へ

 
そこのキミ。
では具体的に何をどのようにすればよいのか?
矛盾をどのように解消すればよいのか?

 
追いかけきれないけれど、知らないだけでアイデアはどんどんと実行に移されているのだ!

 
興味あるかい?

よりよい来場者とのコミュニケーションのために

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Maker Faire Tokyo 2015に参加します!!!
2015年8月1日(土)12:00~19:00
2015年8月2日(日)10:00~18:00
東京ビッグサイト(西4ホール+屋外展示場)東京都江東区有明3-11-1
前売:大人 1,000円、18歳以下 500円、当日:大人 1,500円、18歳以下 700円
Maker Faire Tokyo 2015
というわけで準備に勤しんでおります。
参加に向けてサイトをみていたところ、Maker Faireのブースの作り方(よりよい来場者とのコミュニケーションのために)という記事をみつけた。
“作っただけではダメだ。それを多くの人に見てもらって、その素晴らしさを伝えなければ。写真、スケッチ、プロトタイプ、失敗作などなど、そうしたものはそ のプロジェクトの意味と背景を伝える物語になる。Maker Faireを見に来るお客さんは、Makerたちがそのプロジェクトを、なぜ、どうやって作ったのかを聞くのが大好きだ。だから、プロジェクトのプロセス を語るための材料をしっかり集めておこう。”
そして読み進めると
“(15)自分をインタビューする
質問に備えておこう。答を紙に書いて貼り出したり、飛び出す絵本のようにしても楽しい。声を録音しておいてもいいだろう。しっかりと質問に答えられるよう、事前に準備しておくための質問の例を挙げておこう。それに関する面白いエピソードがあれば、会話に絡ませていこう”
とのことだ!
というわけで書かれていた質問で自分にインタビューしてみた!
“プロジェクトの目的は何か?”
「様々なしがらみに絡まったシステムから解放されて自由に表現を楽しみたいと思いました。当時からモジュラーシンセに興味があったのですが電力会社から送られてくる電気を使うことに違和感を感じました。例えばライブハウスなどで演奏する場合でも枯渇性エネルギーに支えられたキラキラとした世界観ではなく、もっと身近に自分たちでコントロールできるモノで純粋に表現を楽しめる文化をなんとかつくりだせないか?と考えたワケです。」
“何をしたかったのか?”
「まず、ビリビリとした電気や人間様のエネルギーを感じたい!そして太陽光発電の可能性を試したかったのです。」
“何に刺激されてこれを作ろうと思ったのか?”
「311の時、計画停電がキッカケ。悶々としていました。」
“なぜ作ったのか?”
「電気のことをまるで知らないドシロウトがどこまでできるのか?試してみたかった。つくるコトでしか世界は変わらないと思っています。」
“同じようなプロジェクトを作った人は他にいるか? それともまったくのオリジナルか?”
「ベランダソーラーシステムを導入している人は多そうだけど、コンパクトに外で遊びに使っている人はそんなに多くなさそう…。とにかくシロウトなので、ある程度出来ている部品の組み合わせ(モジュール化)とパッケージングの新しさにこだわっています。」
“これ以前に作ったものは何か?”
「DIYは大好きです。家具づくりや金属部品、ミシンなどで色々とつくっています。」
“どこが難しかったか? どこが簡単だったか? 意外だったことはあったか?”
「電気の根本的な部分をまるで理解していないところからスタートしているので、+−を間違えて基板を台無しにしたり、ときに小さな爆発に遭遇したりしていました、でも、テスターを買って問題解消!問題点はひとつひとつツブしてゆくこと、回路図も少しは理解できるようになって、理系脳にほんの少し自分が進化できたコト。しかしネットの情報がなければまだ半分も出来ていないと思います。」
“面白い、とんでもない、大変な失敗は?”
「イベント中に箱の隙間からモクモクと煙が出てきたコト。焦ります…。基板がこげる臭いには超敏感になりました。」
“面白い裏話は?”
「北海道でのイベントに誘われた時、航空会社にバッテリーを運べないか質問したところ、見事にたらい回しにされました…。結局バッテリーは運べないとのこと、行きたい場所には陸路で行くしかないのです…。」
“あなたが最初に作ったものは?”
「ブログで太陽光発電を始めることを宣言しました、そしてDCDCコンバータとバッテリーボックスをつくりました。そして、ロゴマークのデザインも…。」
http://artlog.t-katahira.com/?month=201105
“このプロジェクトの師匠になってくれた人はいるか?”
「ほとんどは、google先生からの情報です。たまにお店の人に質問攻めしています。」
“どれくらい時間をかけたか?”
「今年で4年目、最近はヒマがあれば電気工作をしています。」
“どうやって始めたのか?”
「ネットで部品を取り寄せることから。」
“どこからアイデアを得たのか?”
「太陽光発電をやっている人のWebを見ると部品がバラバラでカッコ悪かったから、中身の難しい設計はできないけど、外側のデザインだけはスタイリッシュにしてやろうと思いました。ヴィジュアル系です…。」
“どんなところで作業していたのか? 職場か学校か?”
「自宅のアトリエ。そして公園で実験!」
“いちばん好きな工具は何か?”
「使う道具はみな愛着を持って接しています。」
“このプロジェクトがどう展開すればいいと思うか?”
「普通にライブイベントなど楽しみの全てが自然エネルギーで運営されればよいと思います。」
“現実世界の問題に挑戦したいと思うか?”
「んー。すでに挑戦しているつもり…。」
“これをビジネスにつなげたいか、それともただの遊びか?”
「経済活動とは切り離し、市民ひとり一人が簡単に自分たちのモノづくりできるキッカケをつくりたいです。」
“いっしょに作った人はいるか?”
「イベントを企画してくれたり、一緒に踊ってくれたり、演奏してくれたり。最高の出会いが沢山ありました。本当に感謝しています。」
“他の人のプロジェクトで影響を受けたものはあるか?”
「田口造形音響さん、一度工房におじゃまして色々と見せてもらいました。スゴイ。」
“このプロジェクトで他の人たちに刺激を与えたいと思うか?”
「ドシロウトでもなんとかなるコトをつたえたい。」
“作ることを誰かに教わったことがあるか?”
「美大でモノづくりの基礎は学びました。今は勤め先で経済活動とモノづくりの関係…、日々葛藤しています。」
“次は何を作りたいか? 今考えている次なるアイデアは? 将来は何をしたいか?”
「超ミニサイズのインスタレーションのパーツをつくりたいです。森の中に何台も設置してみたいです。最低10年は継続したいと思いスタートしました。なので、あと6年かけてどう進化するか楽しみにしていてください。」
ちゃんと答えられるか?是非、試しに会場まで…。
よろしくお願いします。

なぜつくるのか?

そこのキミ。人は、なぜ、つくるのか?

 
日々、私たちは生命が脈打ち呼吸するように何も考えずに何かをつくり続けている。
今日は、なぜそんなコトを繰り返しているのか自問自答してみようと思う。

 
まず最初に思いつくことは、「生きるため」だ。ヒトは衣食住がなければ生きてゆけない進化をしてしまった。身を守るために着るものをつくらなければならないし、食べ物を手に入れるために動物を獲るための道具や農作物をつくらなければならない、さらに厳しい自然から逃れ安息な棲家が必要だ。ヒトは一本の棒を持った瞬間から生きるための道具を獲得するように進化したのだ。しかし、それはヒトに限ったことではなく、動物や昆虫でも似たように巣をつくったりすることを見ると生命活動の一種なのだといってもいいのかもしれない。

 
生命活動といえば、恋人をつくり結婚して子供をつくる。なんてことも種を絶やさず「生命を維持するため」というのも一つの答えなのだろう。他にも、ミイラも永遠の生命や蘇りを信じてヒトのカタチを残すという創造行為もその表れなのかもしれない。でも、「生命を維持するために、私はいろんなモノゴトをつくっているんだ。」というには少し隔たりを感じてしまう、それは、生命を維持するだけではなく、ずいぶんと余分なものを付け加えてしまっているからだ。その余分なものを削り落とせばよいとは考えづらい。

 
ではその余分なものとはなんだろうか?ミイラを例にとれば、まず人間関係が思いつく、王様と平民の上下関係をモノで表さなければならないのだ、誰もが煌びやかな装飾と永遠の命を手に入れられたわけではなく社会の頂点のみがそれを手にしていたのである。上下関係に関わらず、平民同士でも自他の目覚めが余分なものをつくるきっかけになっていたのではないだろうか。
もう一つ考えられるのは神(自然感・死生観)との関係だ、人間社会には常に人智を超えたところに神がいた、その神と「つながるため」につくらなければならないモノがあったのだ。そのモノは神を象徴するに留まらず、社会をまとめる役割、ヒトと神とつなげる役割、自分と内なる自分をつなげる役割、を担っていたのだ。

 
今日の結論として
「生きるために」物質的に満たされるために。「つながるために」心が満たされるために。さらにそれらが「維持」されるためにつくっているのだ。つまり、生命は「生きのびる」ためにつくらなければならないのだ。
どうだろうか?

世界は音

翌日。ライブに来てくれた人から
「余韻はありますか?」と訊かれた。
その時すでに、静寂は掻き消されていた…。
でも、それはそれでいい。
「個人が問われているのだ…」

 
『よい方向に向かうためには、意識の変革が必要である、そのために私は、人に伝える努力をしている。』多くの人がそのような意思表明をしている。しかし何十年も前にこのように書かれた本を読んでいると虚しさがこみ上げてくる。「なにも変わっていないどころか、悪化しているだけではないか?」結局のところ『意識の変革を求める』なんてことは、独りよがりのマスターベーションにすぎにのだ。では、何かを変える為にはなにをしたらよいのだろうか?政治か?教育か?娯楽か?情報か?モノづくりか?どこから手をつけたらよいのだろう?何かを変える為には誰に伝えたらよいのだろうか?家族?周りの人?問題意識や興味を持っている人?権力者?大衆?市民?その人たちは自分の思い通りに動いてくれるのだろうか?
『個人が問われている時代だ。』このようなことを言う人もいる。今の私はコチラの言い分の方がシックリくる。

 
先日、「太陽光発電音響装置計画(Solar project in garden)」の第三回目のプレゼンテーションを行った。電気と音を軸にした大崎leとういうスペースだ。誘ってくれたのは、中田粥さん。ふとしたきっかけで知り合ったのだが、彼がブッキングしている『悟性・超Nakedダシ 』というイベントだ(意味シンなタイトルだ!)。お客さんは、音楽家や電気装置をつくっている人たち。自分がやっているコトの解説と実際に音をだしての演奏(?)をおこなった。

 
数日前から読んでいた本に何度も出てくる「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」禅の問いである。心はその言葉に支配されていた。演奏で注意したのは、音が出るまでと音が消えた後の静寂を意識することと空間に流れている音との調和だけ。昨年の大失敗から、新たに改造したり付け足した機材は不安なく動いてくれて、出したい音を瞬時に出すことも、ある程度できるようになって、この時点では最高の出来だったのではないか?(自画ジーサン笑)と思う。

 
もう、這々の体である日常。『意識の変革を求める』なんて余裕は無い。死に行く日々の中で『個』としての生命をまっとうできるのか?もはや世界はそこまで追い込まれているのだ。

 
そこのキミ。
「感覚と音を消し去れ その時なにが聴こえるか?」
世界は音―ナーダ・ブラフマー