concept

修行時代

「こんなコトをやってて、何の“意味”があるのですか?」

 
モノづくりの過程において、その“意味”をつくる前に知ることはできません。
それが何ものか解らないから手を動かすのであって、つくった後にモノを眺めて自分が何がつくりたかったのかを始めて知るのです。
しかも、それに気づくのには、ずいぶんと時間がかかるものなのです。
さらにモノづくりは、自分のためだけにするものではなく、他者のためにするものでもあるのですが、
他者がそのモノから、便利とか安全とか如何にもそれを望んでいるかのようなことではなく、
もっと深い部分で何を得たのかということも、すぐに知ることはできないのです。

 
消費社会の中では、自分では何も発想せず。何もつくらず。目の前にあるモノを、お金を使って手に入れ、
その時点でのパフォーマンスが最優先されます。ですからモノをつくる人自身が消費社会にどっぷりと浸かっている場合、
そこから魅力的なモノなど生まれ出るはずなど有りえないのです。

 
消費の特徴は、無時間性にあるとも云われています。無時間性とはすぐに結果を求めるということです、じわじわと体質改善をするより直ぐに効く劇薬を求めているのです、ですから結果がみえないことに手を動かすなどということは有りえないのです。

 
私たちは、今、消費に押しつぶされそうになっています。一人ひとりが消費者ではなく“つくり手”であることを強く心に刻んでおく必要があります。
モノづくりの過程で、「解からないことは、解らないままとっておけ!」とよく云われます、“つくり手”は、まだ未知数である解らないことにも挑戦するのです。それは、時間とともに経験値があがり解ることもあるからです。そして解決を手にした時に、他者を巻き込んだ喜びを得たいのです。

 
そこのキミ、私も若い頃、同じように「こんなコトをやってて、何の“意味”があるのですか?」という疑問を持った。
でも、手だけは動かした、そこには、“つくり手”としての修行や経験が詰まっているのじゃ。
そして今でも意味が解らないことに取り組むのは、“つくり手”としての態度だと思っている。
だから、負けないでほしい。

アイデアをだしきる

プリント

 
【defines.jp】を思いつく発端にブルーノ・ムナーリの『モノからモノが生まれる』を読んで触発されるものがありました。
モノづくりの一連の流れの「問題P」(problema)から「解決S」(soluzione)に向かうのに何が必要とされるのかが順番をおって分析されています。まず最初に出てくることはPとSの間に「問題を定義することDP」(definizione del problema)ということが書かれています。つまりは、目の前の課題にどのような問題が隠れているのかを察知する力を身につけ、そして解決に向けた行動にうつしてゆくことなのです。

 
ただ、問題を定義せよ!と言われても。どこからどんな風にそれをやっていったらよいのか見当がつきません。そこで、この本のなかに描かれていた図を少し発展して、今風に私なりに少しまとめてみました。アイデアを出すときに自分が考えたアイデアがどこに位置していて他のアイデアとどのような関連を持つのか、まとめるのに役に立つのではないかと思います。

 
まず、目の前に課題に対してある程度の「情報・学び」を持っているか?確認してみる必要があります。最近は常識とか普通という概念がもはや消失している現場が多く、この程度の情報をもっているのは普通だろとか、このくらいのコトができるのは常識だよねとか、そんな言い草がまったく通じなくなってきています。自分も人のことは言えませんが、日頃から何気なくこれらに触れていることがモノをつくる人の常識だと思うのですが、課題が与えられてからの深い情報収集と学びのノウハウを確立する必要があるのでしょう。ただそれらに頼って積み上げ式でモノゴトを考えてゆくフォアキャスティング的な考え方だけではなく、アイデアを飛ばして離れた位置からそこにたどり着くために何をしたらよいのかというバックキャスティング的な発想も求められています。それらの要素を洗い出し、課題に対しての解決の落としどころを見つけ出してゆくことが求められています。

 
そこのキミ。課題に対しての解答は一つではない。どんな簡単にみえる課題でも様々な解答がそこには隠れているはずだ。それを見極めようとする意思がモノづくりを前進させる原動力なのだ。そして自分なりの解答をいかに導きだせるか?常識をぶち壊してみるのじゃ。

面白がる

私の仕事ってなんだろう?と思います。
周りから、訳のわからない仕事を押しつけられて…。
これって私の仕事なのだろうか?と疑問に思うことが多々あります。
でもイザ、「私の仕事は、○○です!ですから、残念ながらそのような仕事は、お受けることができません。」と胸をはって言うには、おこがましいし、自信もない。そんなわけでズルズルとめんどうな仕事に渦に巻き込まれることになります。

 
おおかた、そんなコトをしていると、雪だるま式に追いまくられ、あげくに、心とカラダがやられて悲惨な目に遭うことは想像に難くないのです、ですから、ビビってなるべく仕事から逃げようとするのですが…、捕まってしまった時はあきらめることにしています。

 
私たちの役目って何なのでしょうか?

 
苦しい思いをしても、モノを世に送り出し、そのモノによって、何がしかの人の役に立ち、少しは社会と関わる。そして、その対価を受け取り、生きてゆくために必要なモノを手に入れる…。そのようなことだと思うのです。

 
「私の仕事じゃないんで…。」と言って、簡単に仕事から逃げてしまうことは簡単かもしれません。余計なことはしたくないということも分かります。でも、自分の趣味と合わないことや興味が無いことでもイヤイヤではなく、面白がってやってみるべきなのです。正反対の価値感だなと思うものでも、とりあえずその価値感を理解し面白みを見いだしやってみましょう。たとえ、アホらしい単純作業だったとしても、自分でゲームのルールを決めて、面白がれる仕事の進め方に変えてみましょう。

 
そうすることでオノレの引き出しは増えていくのです。人は未知の世界に挑んでいるときに輝けるものなのです。一見、簡単そうに見えても、実は奥が深い物事は沢山あります。人は自分が動くことで初めてそのことに気づくのです。

 
そこのキミ。これは、全員に強制するものではありません。これは生き方の選択なのです。
もし、豊かに生きたいのであれば、面白がるとはなにか?面白がって仕事をするためにはどのようにしたらいいのか?一度、ゆっくり考えてみて欲しい。きっと、そのためにすべきことは、山のようにあるはずなのです…。その山が宝の山かもしれないことを意識してみると少しは前向きになれるのかもしれませんネ…。

FAB9

横浜で開催されたFAB9国際シンポジウムを聴講にいきました。
パーソナル・ファブリケーションの世界的な動きを俯瞰することができました。
モノづくりが企業型からパーソナル連携型に転換しようとする革命前夜の様相でした。楽しみながら、モノをつくって、社会の役にたつ。ということを自らが押し進めていかなければならない時代なのです。

 
休憩時間。

 
私の席の前で話をする二人の若者。
久しぶりに会った美大の旧友のようでした。
某家電メーカーに就職したA君。そして大学に残ったB君。

 
A.「学校の方はどう?」
B.「最近、先生は海外の仕事が多いから静かなもんだよ…結構、自分のことができる。」
A.「そう、無茶ぶりが酷かったからな…。」
B.「どう会社は?」
A.「デザイン部に3Dプリンターが導入される気配なんて、まったく、ないよ。。。
さっき役人のパネラーが言ってた“まず議論して…検討します。”ってやつだよ。。。
何の議論をするってんだョ!動きが鈍い。。。」
B.「そ、そうなんだ…(汗)」
A.「そう、デザイン部なんて営業の下請けだよ。。(涙)
大学の時、先生が言ってた、デザイナーがイニシアチブをとるなんてコトは、いっさいないんだ。」(うう耳が痛い…)
B.「辞めてFabLabにいく?」
A.「いや結構同じ考えのヤツがいるんだ、そのうちボトムアップでひっくりかえしてやるさ!(笑)」

 
そうだ!!!そこのキミ。
コレからの「モノづくり」はゲリラ戦だ。企業だろうがFabだろうが学校だろうが…。だれかの指示で何かをするのではない。自分が気づいているコトを気づいている奴らでやればいいのだ。こっそりと集まって…。知らぬ間に世界とつながる…。それが、この狂った世界をひっくり返すことになるんだよ。そう信じるしかないんだ。

Maker Faire「絶望と希望」

130813

Yamaguchi Mini Maker Faireレポート第一弾。

 
一日目の気温は、38.5度であった。体温を超えると身の危険を感じる。
野外展示をしていた一団は館内への移動を余儀なくされた。

 
二日目、朝9時半、会場に入った。エアコンが効いた屋内は居心地がよさそうである。しかし、お隣の集団では「やはり、外でやろう!」と盛り上がってきていた。確かに一時しのぎで引っ越してきた場所は、会場の隅っこの通路で雰囲気が良いとは言いがたい場所だったのだ…。
そうであれば、「私もアイノリさせて下さい!」と太陽光パネルを抱えて、灼熱の中へと出ていったのだ。

 
さすがに前日同様、この熱さではお客さんは、まばらである。となると出展者どうしの近所づきあいが盛んになる…。

 
午後の一番熱い時間、お客さんの波がパタリと止まる…。なぜか太陽光発電音響装置の音を止めて、静かに芝生の上での座談会になってしまった。メンバーはお隣の関西方面から来られたFabLab Kitakagayaの関係者たちである。イラストレータをしながらFabLab に関わっている女性。京都でパーカッションを制作している男性。サステイナビリティ・デザイン研究をしながらFabLab に関わっている男性。それとサラリーマンをやりながら太陽光発電を楽しむ私の4人である。議題は「モノと人の関わり(新たな社会システムは構築できるか?)」かなり大袈裟なタイトルを後からつけてみた。しかしながら、本当にそのようなコトなのである。例えば、“都会の狭小地で小規模な菜園をつくる→その農具はFabLab でつくる→その農具には名入れをする→得られるモノは、食糧、人間規模のサイクル、そして愛着。”
『愛着』というワードはMakersならではなのである。地域や人や道具など、すべてに愛着を再興できれば、少しはまともな社会になるはずなのだ。そして、これはもうすでに実践にうつされているコトなのである。

 
ひとりが「常に絶望と希望を感じながら活動している。」と言った。まったく共感できる言葉である。私もずっと同じことを考えていた。青空と芝生の上でこんな対話ができる、それは希望である。しかし40度近い異常気象の中、わざわざ山口まで足をはこんで、こんな対話をしなくちゃいけない、それはある意味、社会システムの中で追い込まれている状況であり、それは絶望である。しかし今、この「絶望と希望」を感じながら私たちは前に進まなくてはいけない。

 
そこのキミ、Maker Faireはただの発表の場ではない。対話の場なのだ。

問題設定力

130918

ある日、「ものづくり」とか「学び」とか…悶々とググってた。
そしてヒットしたのが自由大学。
そこで目にしたのは「学びのキュレーション」という考え方。
んー。「defines.jp」で取り組んでいきたいビジョンとかなり近いゾ。

 
というわけで、おそらく自由大学の学びの中心にある「キュレーション学(初級)」という講義がこのタイミングで開かれることをゲットしたのでした。そして、すぐに申し込みをすませたのでありました。

 
ファウンダーでもあり教授の黒崎さんはキュレーターの本質を「問題設定力」だと定義された。「それは、問題を解くコトではなく、オノレの美意識の中からわき上がる疑問を問い。ユーモアセンスにとんだ問題設定をするコトなのだ。」とおしゃた。
ここでの美意識やユーモアセンスにも、これという解答はない…。そこは不測定多数が感じるところなのだ…。

 
新しい学びをつくりだすために先進的な試みはすでにおこなわれている。

 
そして、私は復習の時間。。。

 
そこのキミ。自由大学でググってみて!

よい製品とは何か

20130705
本選びの神様が時々、降りてきてくれます。

 
昨日もdefines.jpのことで本気で悩んでいたのですが、本屋にいってブラブラしていると目の前にこの本が輝いていました。

 
『よい製品とは何か』(ジェイムズ・L・アダムズ/2013年)

 
本書は、モノづくりについて書かれた本ですが。
defines.jpで考えていきたいことがほとんど網羅されています。

 
①製品と品質ー品質とはどのように考えられてきたか
②品質向上をさまたげるものー偏った狭い考えと慣習
③パフォーマンス、コスト、価格ーそれはお買い得か
④人になじむ製品ー問われるヒューマンフィット
⑤クラフツマンシップーつくり手の喜び、使い手の喜び
⑥製品、感情、欲求ー好き?嫌い?それともつまらない?
⑦美、エレガンス、洗練ー経験によって得る見識
⑧象徴性と文化的価値観ー我々は何者なのか
⑨地球という制約ー製品が地球と人類に及ぼす影響
⑩結論ー本書で学んだこと、今後すべきこと

 
ざっと一度読んだだけですが、読者に考えることを示唆している内容が特に素晴らしい。
とにかく、これからのことを考えることが必要なのです。これからジックリと読み込んでいきます…。

 
そこのキミ。これは教科書だ!学びだ!是非購入を!

失われたモノと未来

週末の2冊の本に目を通しました。
『失われた手仕事の思想』と『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』です。
一方は20世紀後半に我々が時代の流れの中で終焉を向かえたモノづくり(職人の思想)について。そして、もう一方はすでに始まっているモノづくりの新たな潮流について。注目したいのは、“作り手のコミュニティー?と自然や社会環境のなかで穏やかなモノづくりがなされるのかどうか?ということ…。その可能性についてです。

 
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同じことは自然観にもいえる。自然保護や共生、還元する自然という言葉が飛び交っているが、どこか一部だけ を元に戻すことはできない。手仕事の時代の基盤は人々の生活からすべてが生まれていたのである。生活が変わってしまったのに、都合のいい、聞こえのいい部 分だけを昔に戻そうというのは無理というものである。
私たちは手仕事の時代を終焉させてしまったのである。
それなのに、今現在、手仕事の時代に代わって進もうとする方向性は指し示されてはいない。まだ、行く道のわからない迷い道の途上である。
そんな時代でも、私たちは昔ながらに、友人や家族や学校という社会の中で生きている。人間同士の関係や結びつきに対してのルールは、世代間で揺らぎがあるが、竹のざるを使い、木造船で漁をし、茅屋根の家に住んでいたころのままである。
春が来れば桜を愛で、秋には紅葉の美しさにため息をもらす。土用を過ぎたら木の水揚げが終わり、冬支度に入るから木や竹を切る季節が来たと考えていた職人たちと同じ季節感で生きている。
建材の切れ端を拾えば、手にとって匂いをかぎ、そうした家に住むことを心地よいことだと思う心がある。
自然との共生をやめた人間たちは、新しい素材と品物に対する新しい思想と生活習慣を手に入れなくてはならないだろう。
今は次の時代の思想を確立するまでの過渡期の時代であるが、いずれ橋が架かり、次の時代に新しい人間関係や物、自然に対する安定した考えやルールを手に入れるだろう。
人間はそんなに愚かではなかった。『失われた手仕事の思想』(塩野米松/2001年)

 
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いま僕らが目にしているのは、新しい時代の家内工業への回帰だ。新たなテクノロジーは、人々にふたたび生産手段という力を与え、草の根からの企業と分散されたイノベーションを可能にした。『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』(いま僕らが目にしているのは、新しい時代の家内工業への回帰だ。新たなテクノロジーは、人々にふたたび生産手段という力を与え、草の根からの企業と分散されたイノベーションを可能にした。

 
メイカームーブメントには、三つの大きな特徴がある。(中略)①デスクトップのデジタル工作機械を使って、モノをデザインし、試作すること(デジ タルDIY) ②それらのデザインをオンラインのコミュニティで当たり前に共有し、仲間と協力すること ③デザインファイルが標準化されたこと。おかげでだれでも自分のデザインを製造業者に送り、欲しい数だけ作ってもらうことができる。また自宅でも、家庭用 のツールで手軽に製造できる。これが、発案から企業への道のりを劇的に縮めた。まさに、ソフトウェア、情報、コンテンツの分野でウェブが果たしたのと同じ ことがここで起きている。『MAKERS―21世紀の産業革命が始まる』(クリス・アンダーソン/2012年)

 
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モノは人々の生活を大きく変えてきたのだ、これから先ももっと大きな変化が起きるかもしれない。
その時に必要なことは“新しい人間関係や物、自然に対する安定した考えやルール”つまり思想を語ってゆくことだと思います。
そして新たな職人の時代がくるのだろうか?

 
そこのキミ。この2冊オススメですゾ。

対角線

20130622

definesのマンダラマップを考え出して
対角線上にもなにやら関連性があることを発見してしまいました。

 
あらためて自分が何をすべきかという課題を与えてくれたような気がします。出来ているようでまったく出来ていない、日々浪々の中でついつい忘れがちな事柄がそこに眠っていたように感じます。

 
すべては、どういう人であるべきか?という理想像かもしれませんが、モノをつくる人が無意識のうちにやっている所作のようなものかもしれませんし、モノづくりをする上でのルールのようなものかもしれません。

 
VisionとIdeaについて未来を予見する事やアイデアをだすことには“勘”が必要なのです。
若い頃、あの人カッコいいなぁと感じる人は、勘が身についている人でした。プレゼンなどでもクライアントの偉い人がききたいことは、モノをつくる人たちの“勘”でした。
「キミ。これからこの市場はどうなると思うかい?」という重役の質問にあたりまえのようにスラスラと言葉を発する先輩はすごくカッコよく、何故そんな事を確信があるかのごとく言えるのか?それには、感と観を常に意識し、自分の言葉として蓄えておく姿勢なのだということを発見し精進しなければと思ったものです。
また、アイデアのブレストをした時もその先輩は、次から次へとアイデアをだしていきました。その尽きる事の無い斬新アイデアはどこから湧いてくるのか?脳みそをカチ割りたくなったものですが、それも感と観の上になりたつ勘なのだ。早く先輩に追いつかねば…と焦りを感じたものでした。
しかし、いつのまにか“勘”は調査へと移行していったのです。“数字で人を納得させる”ということが増えてきました。ワクワクする打ち合わせも減りました。誰もリスクは負いたくないのです。おそらく失敗は減ったのでしょう…。それとともに魅力あるモノづくりも減っていったのでしょう。
そんな中でも「オレはこう思う!」と勘を頼りに発するべきだと思うのです。

 
Study とTechnicについては“学び”の姿勢が問われます。
自ら学ぶ体質を持っているか?いないか?それはその人の生き方をみれば一目瞭然です。学びの技術も時代とともにいろいろな考え方がありますが、成長することに貪欲でなけれななりません。昔、教えてもらったことから何も進歩していない人たちとの対話はホントにつまらなくて時間の無駄です。過去は捨てて新たに学んだことで対話をすることの楽しさを味わいたいのです。
技術もまったく同じでずっと変わらないように見える手の動きでさえ、日々精進しようとする意思があるから、その緊張感を失わなくてすむということをよく聞きます。
もし、人としての豊かさを求めるのであれば、人やモノから学び続けることを忘れてはいけないと思うのです。

 
Scheduling と Humourについては余裕のある“時間”をいかに創造してゆくかという問題です。
時間の使い方は、人生の大きなテーマであることは間違いありません。時間の価値をよく理解して、その使い方に注意深くならなければと思うのです。人生の喜びや楽しみはどこにあるのでしょうか?それらを無視したやり方が当たり前になっていませんか?効率良くお金を儲けることから、日々を楽しむ価値感へと変わる必要があると思います。仕事が楽しければ、残業するなと言われてもやり抜く権利を与えてほしいと思います。なにかをつくりだすには、無駄はつきものです。当たり前ことを当たり前にこなしてもそれはとてもツマラナイことのように感じます。当たり前のことを少しずらしているから、ユーモアがあり笑いがあり人間らしい表現ができるのです。でもそこに行き着くには、絶対に時間が必要なのです。
だったら仕事と遊びの垣根をとってしまえばいいじゃないか?と考えることはとても自然に感じるのです。それと同時に仲間や家族と共有する時間も財産なのです。ですから自分の時間と同様に他人の時間を大切に扱うことが求められているのだと思います。

 
Dialog とPresentation については“言葉”についてです。
「私たちはわかりあえない。」人類は自分たちの脳みそでつくりあげた架空のルールやシステムで生かされている存在であり、自然界のルールだけで生きているのではないのです。もし自然界のルールだけに従って生きる時には「わかりあえる」のではないかという感じがするのです。
自然に存在するモノがそこに介在する時には私たちの誤解はとても少ないように感じるのですが、“言葉”という道具を使う時には多くの誤解を生み出していると思います。でも果たして誤解がイケナイことなのかと考えると必ずしもそうとは言い切れないないような気がします。白黒決着をつけ正解を求めることが正しいことではないのです、多諧調のグレーなやりとりや曖昧さのなかに美意識を求めることが必要ではないか?と思うのです。

 
そこのキミ。何かをする時には、まずDefineを中心に、勘を研き、学びを深め、時間を掘り出し、わかりあえない自分の言葉を発するのじゃ。

 
たぶんそこから何かが始まる…。

DIWOと家庭菜園





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DIY(Do It Yourself)→DIWO(Do It With Others)
DIWOと家庭菜園。これからの大きな潮流になってゆく予感がいたしますが。
都会に棲んでいるキミ。どう思うかね?