concept

経験▶言語化

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『パタン・ランゲージ』(1977年/クリストファー・アレグザンダー)で提唱されていることは、建築・都市計画にかかわる法則性を「パタン」と呼び、それらが集まって「言語」(ランゲージ)として記述・共有する方法を考案しました。 彼が目指したのは、建物や街づくりのデザインについての共通言語をつくり、誰もがデザインのプロセスに参加できるようにすることでした。

 
モノをつくる人は、言葉に表さなくてもカタチや色でモノが何を語っているかを聞くことができます。そして、言葉を使わなくても観るだけで対話が成り立つこともよく知っています。

 
ですが世の中の全ての人がそうではありません。
モノをつくる人はマイノリティであることを自覚すべきです。

 
私たちは、もっと言葉に置き換える作業が必要なのかもしれません。モノづくりに興味を示さない人々にその価値を知らしめるために、モノの完成度をあげるとともに、モノが持つストーリーや心根を語ることができるパタンランゲージを確立してゆく必要があります。そしてモノとパタンランゲージを駆使してより深い対話を行い、あやまちをただし、人間社会や環境の変化に即したモノをつくってゆかなければならないのです。

 
モノとは何かという問いは、今ようやく始まったところです。
人とモノとの関わりをdefineしてゆくことは私たちに課せられた使命なのだと思います。

 
熱い思いや感動秘話や自慢話などはいりません。そのモノ自身が発している言葉をモノづくりができる人の感性で翻訳してゆくことがもっとも重要なことなのです。その言葉がゆくゆくは文化というものに成就して我々の社会が少しでも穏やかになることを目指さなくてはなりません。
このままモノをつくり続けてもなにも良いことはないんじゃないか?と多くの人たちが悩んでいます。しかし太古の昔、人類が一本の棒を手にした時から、モノとの蜜月が始まったのです。私たちが進む道が絶滅への道であったとしても、退路は失われているのです、ギリギリの道を進むしかないのです。ですから、よく学び、知恵を出し合い、対話して、楽しみながらモノづくりの大義をまとめてゆく必要があると思うのです。

 
そこのキミ。隣人に思いを伝えることって難しいよね…。

 

遊ぶ▶楽しむ

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モノづくりには、遊び心が必要なのです。

 
モノをつくる人は面白い人が多いのです、ユニークでユーモアのある人が多いという印象があります。新しいことに敏感で人生を楽しむすべを探し、仕事と遊びが渾然一体となって生きているのです。最近になってワークライフバランスなどという言葉がようやく脚光を浴びているようですが昔からモノづくりの人種はそういうタイプが多いのではないでしょうか?

 
ユーモアセンスのある人は、子供のように頭が柔らかく一つの課題に対し、あらゆる方向からいくつかの解決策を出すことができます。それは、幅広い知識や経験を持ちあわせ、他人の気持ちをよく理解することでき、条件や状況に合わせて柔軟に対応できる人なのです。だからユーモアセンスを持ち合わせた人は、逆境に追い込まれてもニコニコと笑みを浮かべているのです、なぜなら解決策をひねりだす力を持っているのですから…。

 
ユーモアとは、それ自体が人間らしさなのです。
つくり出されたモノの魅力は、美しさや便利さや安さだけではなく、ユニークさがあることを忘れてはいけません。
ユニークさには人間の暖かみがあります。

 
さまざまなプロセスをおってつくってきたモノが完成したとき、そのモノにどんな魅力が宿っているか?観察してみましょう。それを判断するのは、難しい調査や真面目な議論ではなく、おおらかな遊び心なのではないでしょうか?

 
難しい顔を突き合わせてミーティングをするより、みながユニークで、ユーモアのある発言を繰り返した方が難題を乗り切れる可能性が高いはずです。漁師が網を引っ張るときに自然とそこから歌が生まれてくるのも人間のユーモアです、合理的に考えれば余計なことをして体力を使ってしまい、労働力が低下するということになりユーモアは排除されてしまうのです。ここ数十年は、そのようなことを繰り返してきたような気がします。

 
そこのキミ。ユーモアセンスをもう一度、見直してみないかい?

 

技術▶表現

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モノゴトを人に伝えるためには、メデイア(媒体)が必要です。

 
工芸家のように全ての工程全てをこなす場合もあります。
分業制のなかである一部分を担当する場合もあります。
モノづくりのなかでは、常に人になにかを伝える為の自分なりの表現技術が必要になります。

 
コンセプトを考える人であれば企画書がメデイアです、クルマを設計する人であればCADがメディアですし、カタチをつくる人でありば粘土がメディアですし、色を考えるひとは、紙がメディア、といった具合に、モノをつくる工程のなかで言葉やカタチや色などといったものを的確に伝えなければなりません。

 
『心技体』という言葉があります。

 
心=精神。「技」=技術。「体」=体力。モノづくりにおいてもそれらが必要なことは一目瞭然でしょう。どんなに優れた思いやアイデアを持っていたとしても、それを表現できる技術と体力を持っていなければ成り立ちません。そして、技術や体力を養うことで心も研かれてゆくのです、昨日よりは今日、今日よりは明日と、相手の顔が見えたときに少しでもいい物をつくろうとするものです。

 
そして、ボーっと考えていたことをエンピツで白い紙に書き出した時に初めて冷静にみることができます。プロトタイプをつくることで全体を把握することができます。ひたすら単純作業を繰り返すことで心が開かれることもあります。失敗を繰り返すことで新たな発見もあります。考えることも重要ですが手作業も同じくらい大切なものなのです。

 
モノづくりには、人に伝える為に自分なりの完成された表現方法を持たなければならないのです。その為には、辛くても職人的な修行が必要なのです。技術や手法を教えてもらうのではなく、自分なりの表現方法を完成することなく学び続けなければなりません。そこには多くの美意識がかくれているはずです。

 
そこのキミ。キミは何をメディアにしてモノづくりに参加するのかナ?

 

無▶つくる

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私たちは、何も無いところから
モノをつくっているわけではありません。
もう何も考えることが無くなったところから、
つくり始めているのです…。

 
様々な思いや情報や条件の中からこれぞというモノをつくりだすことはとても難しいことです。
モノづくりの準備が整ったら全てを忘れることが必要です。自由に考える能力です。

 
『ファンタジアとは何よりも自由な能力であり、考えついたそのことがほんとうに実現できるだろうか、機能面はどうだろうかといったことにとらわ れ なくていい。どんなことでも自由に考えていいのである。最高にバカげたことだろうが、絶対に信じられないことだろうが、どんなに不可能なことだろうが、それでいいのだ。』(1977年「ファンタジア」ブルーノ・ムナーリ)

 
意外と私たちは、自由に考えられない人間になっていることに気がつくべきなのです。広く深く考える習慣やユーモアセンスを常に研かなくてはなりません。

 
次に必要なことは、モノごとを単純化することです。それはとても難しいことなのです。放っておくとモノづくりは、どんどんと複雑化の方向へ流れてゆきます。様々な思いつきや人々の考えをどんどんと織り込んでゆくことでモノは混沌化してゆくのです。しかし、このようなことはモノづくりとは言えません。どちらかというと真逆の単純化する作業が必要になってくるのです。要素を取り除き本質的で美しくシンプルなモノへと昇華させてゆくのです。

 
「そんな簡単なことを何で思いつかなかったのだろう…。」と言わせたらそれは勝利宣言です。
そして、それを人々が “あたりまえ”と感じることで私たちの仕事は完結するのです。

 
アイデアをひねり出すには、時間と知識と技術、そして、それらにとらわれない自由な心と単純化する思考力。そしてゆっくり俯瞰と凝視を繰り返すしつこさが必要なのです。

 
そこのキミ。アイデアは誰でも簡単に出せると思ったら大間違いだゾ。

 

対話▶感じる

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私たちは、大した必然性もなしに、手を動かし、モノを生みだしています。そしてそれらは、消費され、すてられる。
駅前に並べられた錆び付いた自転車…。駅に乱雑にすてられているビニール傘…。修理できないモノ…。
それらをみるとき、いつも心が痛みます。モノが可哀相だと思いませんか?

 
『「諸行無常」などと言うでしょう。いくらどんなものを作っても、いつかは消えてなくなるわけですが、そういうものを見定めてやるというのと、見定めないでやるというのは、だいぶ違うはずです。
「モノづくり」の人間ならば、モノを作るときに、どうせなくなるんだから、いい加減なものをとは言わないでしょう。そうではなく、なくなるものだからこそ、しっかりと作っていくというような。人間の心の中に、そういうしっかりとした姿勢を作ることが大事です。

 
私は「モノには心がある」ということをずっと言っています。これは、いまもって大変な課題ですが、厳密に言えば、「モノに心が生まれるようになる」ということです。
最初は心はなかったけれど、生まれるようになってしまう。自動車でも、最初はなかったけれど、これだけ上等になると社会を変革します。その変革 をする時に公害が出てくるわけです。その公害を起こすときの、その心根というのが、おそらくーおそらくとあえて言いますがー、自動車の心根がそういう表現 をしている。つまり言葉がつかえないから、公害ということを通して、警告を発しているわけです。「気をつけなさい」と。』
(2009年/栄久庵憲司)

 
モノをつくる人は、まず、モノと対話すべきなのでしょう。そして、モノの心根がどんな表現をしているのかをまず感じなくてはいけません。心根は言葉で訴えかけているとは限りません。言葉にできないものを感じ取れるように感性をみがくことを怠ってはいけません。衝動などという大袈裟なことではなく、モノたちの静かなつぶやきが何を語ろうとしているのか?

 
静寂に耳を傾けられる人であれば、モノと自分や他人や大自然との因縁を感じとれるのではないでしょうか?そしてその感じが多くの人たちと通じあうかどうかを試してみればいいのです。

 
そこのキミ、大声で主張ばかりしていてはダメョ!
私たちは静かな関係性の中で仕事をしなくちゃいけないんだ…。

 

モノには心がある

「道具寺道具村」のコンセプトを直接聴いたのは、確か2007年ぐらいの時でした。

 
そのとき、「道具とは道を具するものである」という言葉をききました。道を備えているものがすなわち道具であると、例えばハサミはモノを切る道具であるとともに、なにかの道を究める道具でもあり、生きてゆくための道具なのだ。ということなのだと心にメモしました。
モノづくりの頂点にいる人が残りの人生をかけて訴えかけてくる内容に胸がえぐられるような思いがしました、今思えばそのことがdefinesに行き着く発端のひとつだったのかもしれません。先人たちから、私たちが何を引き継ぎ、何を残してゆくか…。

 
『私は「モノには心がある」ということをずっと言っています。これは、いまもって大変な課題ですが、厳密に言えば、「モノに心が生まれるようになる」ということです。
最初は心はなかったけれど、生まれるようになってしまう。自動車でも、最初はなかったけれど、これだけ上等になると社会を変革します。その変革をする時に公害が出てくるわけです。その公害を起こすときの、その心根というのが、おそらくーおそらくとあえて言いますがー、自動車の心根がそういう表現をしている。つまり言葉がつかえないから、公害ということを通して、警告を発しているわけです。「気をつけなさい」と。
言葉があれば話ができますが、言葉がないから公害を出すことによって、相手をして感知せしめる。その意味で心が存在する、と言うわけです。
水もそうです。水を汚して、汚染された水を飲んで病気して、おなかを壊して初めて、水の大切さが分かるわけです。そこで水の意味が分かるというのは、水がそういう心を持っているから、あえてそうやって、われわれに分からせているわけです。
最初から心があるわけではない。それは後になってから出てくる。人間がモノや道具を作る。そうして、しばらくして心が生じてくる。やがてそれが、繁栄と破壊をもたらす。
例としては自動車が良い例です。確かに今の時代の繁栄は自動車が担っているのでしょうけれど、一方で、むしろ自動車そのものが、事故はもちろん環境汚染とか公害とかを引き起こしているわけです。あえて言うならば、その心をよく理解しないと、自動車という意味を理解しないと、われわれは自動車にやられてしまうわけです。
警告を発しているときに、モノに心があるとわかれば、そういった問題が起こったときに、実感が出てくるというか、自らのこととして考えることができる。環境汚染が起こっても、そういう気持ちをもたないと、気がつくのが遅れてくるのです。それは、心があると思えば、いろいろなものが明らかになってくる。その作り方も、対応の仕方も、処理の方法も、確かに解き明かすことができるはずです。
日本では昔から、針供養とか包丁供養とか、あるいは人形供養とか、ずっと行われてきました。いまでも行われています。それは、そういうことではないでしょうか。モノや道具に、心はあるということです。

 
ある日、広島の原爆の焼け野原で、モノというモノがひしゃげて壊れていた。
それは、人間のようには逃げられないというモノ自身の特性があります。ですから二輪車だとか、そのままひっくり返って焼けてしまう。けれど、形骸は壊れたまま残っている。普通ならそのまま残っていると、必ず人間が、ちゃんと直したらいいだろうと、おそらく思うはずなのです。
ところが、そういう非常事態ですから、もうあきらめてしまう。もう一度直せば使えると思うよりも先に、真っ直ぐに、元の元気な姿に戻ってほしいという感情が出てきたのでしょう。そういう感情が出てきたことで、ひしゃげて壊れたモノが「直してくれ、元にしてくれ」と叫んでいる、そのように聞こえたというような。これはごく自然のことだ、という思いです。そういう意味では、これは何も広島ばかりでなくて、戦災にあったどこの都市でもそうだったのでしょうけれど。
たまたま焼け野原の中に、ひょこっっと自転車の形骸でも、電車の形骸でも、浮き立っていると非常に目立ちます。まったくの焼け野原に、焼けただれた電車だけが残っている。他には何もない。そうすると、その存在感は強烈なものがあって、それこそ闇夜に紛れて、電車が話しかけてくるような。
空襲とか原爆というのは、都市を孤独にしますから。人は全部殺されて、孤独の中で、人口の存在があるというのは、人間の孤独を癒すのに格好のことでもあるわけです。ですから、私の場合でも、人間はいなくなったけれど、そういうモノたちがいるというのは、確固たるつながりができたということだと思います。
人が作ったものを懐かしく思うことがあるでしょう。孤独なジャングルの中で、たばこの吸い殻でも落ちていたら、どんなに励まされ、力づけられるか。人の作ったモノを懐かしく思う、そういうのに近いです。私の場合は、そうしいうものにたいして、関心が強かったのでしょう。それが、モノの世界とのコンタクトの始まりだと言っています。そこでコミュニケーションしていた。そのまま、どっぷり入ってしまったわけです。

 
「モノ」を見つめていくと、だんだんと「仏」に近づいていくのです。もちろん、そのままですぐにそうなるということではなくて、訓練や努力を重ねていくうちに、モノがしだいに仏の姿に近づいていく。そういうことが重要だというような意味です。
よく「諸行無常」などと言うでしょう。いくらどんなものを作っても、いつかは消えてなくなるわけですが、そういうものを見定めてやるというのと、見定めないでやるというのは、だいぶ違うはずです。
「モノづくり」の人間ならば、モノを作るときに、どうせなくなるんだから、いい加減なものをとは言わないでしょう。そうではなく、なくなるものだからこそ、しっかりと作っていくというような。人間の心の中に、そういうしっかりとした姿勢を作ることが大事です。
それには、私の場合ならば、禁欲、修道というようなことです。鑑真和上の場合は、嵐にあって船が難破して、目が見えなくなった。けれどもそのおかげで、心の目が澄んだと言っておられます。
モノがよく見えるためには、どうすればいいか。モノがよく見えないと、良い、悪いがわからない。そのためには、モノがよく見えるためには、そういう禁欲的な、修道的な、多少きついことを実践したほうがいい。訓練し努力するということです。
人は、モノが見えていると、きついことをやったことなど忘れてしまいます。普通、モノが見えないときには、きつい、きついと言うけれど、モノが見え始めてくると、そういうことは全部、忘れてしまう。
禁欲し修道して、訓練することです。そんなふうにして、「モノ」の存在に、「仏」の姿が見えてくるようになる。自分が作る「モノ」に、豊かな「物格」があらわれるのです。

 
「モノの世界と人間世界」(エピローグ)

終わりに言い残したことを加えましょう。デザインとは、己が念じていることをかたちにすることです。インダストリアルデザインは工業力で増幅されます。ですから、良きにつけ、悪しきにつけ影響力が大きいのです。建築のように一品だけのものもありますけど。
モノの世界は人間の思う通りになるようですが、それには人間には不遜さがあって、必ずしも人間の思うようにはなりません。
時代は、モノの世界が人間世界の足りないところを充足することがあります。長次郎の黒茶碗とか、正宗の日本刀、日本の名建築などがそうです。あまりの深さ、美しさに、見る人自身の心の乱れを救ってくれます。また人の知恵によって、モノの未熟を解決することもあります。優れた民芸品がそうです。
そこがいいところなのですね。人間世界とモノの世界は絶えず対峙しています。モノの世界は人間世界に不足や不満を感じると、必ずといっていいほど、その報復が始まります。それがモノ言わぬモノたちのやり方です。
環境問題はその好例といってよいでしょう。汚染や交通事故は愚かな欲望を制御させているのです。それらは、言葉を使わないで警告を発しているのです。
ですからわれわれは、モノとの付き合い方が肝要です。あえていえば、地球から生まれているモノの世界は、人間の力を借りることがあります。だからといって、モノの世界は決して人間世界に従属しているわけではありません。あくまでも、モノの世界は人間を利用していると言ってよいのです。
したがって、モノの世界の効用は人間自身にかかっています。それだけに、モノ言わぬモノの世界とは、コミュニケーションがなくてはいけません。その時、かたちが生まれ、デザインになるのです。デザインには、それほどの重みがあり、人間自らによって築かれなくてはなりません。モノとの完璧なコミュニケーションが求められているのです。
八十年の生涯でさまざまなモノと接してきましたが、どれも必ずしもいい結果にいたるとは言い切れません。考古学的に言えば、七百五十万年前から、人間と道具は付き合っているといいます。ですから、モノの世界と人間世界の付き合いは、人間の二足歩行が可能になった以前より始まったことなのでしょう。いってしまえば、モノの世界と人間世界とは切っても切れない関係にあると言えるのです。
まさに「物心一如」という言葉が当てはまります。地球を人間の願望通りにすることは、容易なことではありません。デザインはまさに物心一如の、その一点の具現化に力を注いでいる、といっても過言ではありません。モノの世界と完全にコミュニケーションができるまで、人とモノとの関係、つまりデザインは、果てしなく続いていくことでしょう。
意外とモノの心を知ったつもりでも「幽霊の正体見たり、枯れ尾花」というようなことになりはしないでしょうか。つかまえたと思った瞬間に手からすり抜けてしまうのです。
「悉皆仏性(しっかいぶっしょう)」となるか、はたまた「悉皆物性」となるかは、永遠の課題です。永遠の課題は永遠に解決されないままでいるのが、人間として、生き甲斐なのではないかと思えてなりません。
人間とは何かと問われて、ギリシア以前から数千年たっていますが、モノとは何かという問いは、今ようやく始まったばかりです。人間とモノとの関わりを創るデザインを究めるには、これから数千年はかかるだろうと思われます。
デザインをして何が分かるのかと問われれば、それは、人間を知り、モノの心を究めることと同じであるということです。デザインは倦むことなく、人にインパクトを与え続けているのです。
私が念願としている「道具寺道具村」の建立が、人間世界やモノの世界、つまりは、人格や物格を追求する道場になればと、こころより祈ってます。』

 
『デザインに人生を賭ける』栄久庵憲司(2009)

 
そこのキミ、どうやらモノには心がありそうだなと感じてきたかい?

計画▶実行

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何かをするには、必ず時間がかかります。
「時間が足りなくて満足な仕事ができなかった…」という失敗を今日も繰り返していませんか?

モノをつくるのには、いったい、どのくらいの時間が必要なのでしょうか?
一秒、一分、一時間、一日、一週間、一ヶ月、一年、十年、一生?百年?千年?

一秒でおもいつく。
一分で考える。
一時間で描きだす。
一日でカタチをつくる。
一週間でメディア化する。
一ヶ月で対話する。
一年で人に伝える。
十年で人のモノにする。
一生で自己完結する。
百年で文化にする。
千年で歴史にする。

いつからいつまでに何をするか?
計画の練り方と実践方法があるような気がします。

この項目を考えている時にプロジェクトマネージメントとという言葉が最初にアタマに浮かびました。日頃、自分がやっている仕事も半分はマネージメントのような気がします「目標・目的を達成するために必要な要素を分析し、成功するために戦略を打つこと。」なにかとってもサラリーマンっぽい感じがしますね。“必要な要素を分析し”の部分はdefinesの前項の“学び”に通じるところありますが“成功するために戦略を打つ”というのは、もちろんモノづくりもそうですが、それ以外に人材を配置することであったり、プロジェクトの予算を管理したり、フローをしっかりと組み立てたりということが考えられます。でも言葉の響きからも感じられるように「結局は金かョ…。」という冷めた目で見てしまいます。

時間とお金の関係はとても深く、どちらが大切なのだろうとよく考えます。私は迷いなく「時間」と答えるでしょう。(もちろん、お金も必要です。)自分で考えたり、モノをつくる時間をいかに捻出するかがモノづくりの大きな過程のひとつです。実行に必要な要素を洗い出して、優先順位をつけて、必要であれば、お金で時間を買うことも必要でしょう。

とにかくdefineするためには、“人に考えてもらう”のではなく“自分で考える”ことを最優先させなければなりません。もし誰かと一緒に仕事をするのであれば、他人の時間も大切にしなければなりません。そして、時間の質と量をいかにコントロールするのか?そして、いつまでにモノを手放さなければならないのか?仕事の流れ、まわりの動き、社会の動き、時代の流れなどといった時間を読まなければなりません。

そこのキミ、いつまでに何をするんだい?

知と観▶学ぶ

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「書を捨てよ、町へ出よう」(1967年/寺山 修司)
昨今では、それ以前に「スマホを捨てよ、本屋に行け」かな?

 
自分の知識や感覚だけでモノづくりをしている人などいるのでしょうか?
また集めた情報だけでモノづくりをしている人などいるのでしょうか?

 
残念ながら私のまわりには、結構な割合でこのような人がいるのではないかという疑いがあります。
嫌な言い方をしてみましょう…。

 
とても狭くて経験も少ないアナタの知識や感覚だけで
モノづくりをしているんだネ…。
なんの根拠もない情報を寄せ集めて
ニセモノづくりに精をだしているんだネ…。

 
どうでしょうか?
このようなことを克服するためには“学び”を仕事や生き方や暮らしの中にうまく織り込んでゆくことが重要だと思います。慣れないうちは、フィールドワーク(エスノグラフィ)を学んでゆくことが必要なのです。慣れてくれば、カラダや神経が勝手に動きます、ただ慣れないうちは、繰り返し繰り返し練習してください。

 
モノづくりの仕事は、暗黙知を探るようなものです。そして暗黙知を探る“学び”をしなくてはなりません。フィールドワークの方法論はここでは触れませんが、

 
『知ることではなく経験すること。』
『見ることではなく観ること。』の2点に集約されます。

 
例えば、“ツイッターで300ページ分の本の要約を読んでアナタはその本の内容を知ることができました、その情報をもとに分析し方向性を見いだしました。結果、その方向性で仕事はうまくいきました。”という場合と“300ページの本を2日かけて読みました、アナタは、本の内容がいまいち共感できず、方向性がわからなくなってしまいました…。”一見、最初の方が合理的でスマートな感じがするかもしれませんが、モノづくりは一生の仕事です。ただ目の前の仕事をうまくこなすことが出来るより、おそらく、その時、解答が得られず悶々とした経験の方が、“自分のモノづくり”のプラスになっているはずです。

 
例えば、アナタが友人と一緒にネットで話題になっている店の食事に行きました。“出てきた料理をとりあえずスマホで撮ってフェイスブックにアップしてみた。みんながいいねを押してくれた。”ということなのか、“出てきた料理を食べてみた、友人がやたら美味いとはしゃぐので、その理由をそれとなく聞いてみた。そして他のお客さんがどんな反応をしているのかも観察してみた。”わたしは後者のような人と仕事がしたいのです。

 
世の中。“ヒット商品を分析し、差別化をハッキリさせ、さらに良いものを提案するのが私の仕事です。”とする人がいます。
私はそれには少し違和感を感じます。
本来のモノづくりとは人や社会が心で欲するモノでなくてはなりません。すなわち、モノが有るおかげで生命や精神活動がささえられ、社会の安定をもたらすことなのではないでしょうか?
市場というものがあり、そこでの消費指数がモノの価値であるとする考えがアナタを支配しています。モノの価値を価格で計るのではなく、モノから我々が恩恵をうけるという指数へと、なんとかシステムを改める方法はないでしょうか?「売れるモノをつくるのではなく、役にたつものをつくる。」というスタンスを私たちは放棄してはなりません。売る人とモノをつくる人は別々の人が担当すべきです、利益の確保が重要なポイントであることはよくわかります、しかし、そんなことの繰り返しでツケがたまっているのです、そして、そのツケで弱りはてているのです。それが現状であることを認識しましょう。『人に学び・市場に学ぶな!』と声を大にして言いたいのです。

 
蓄えられた知識や情報はどうしたら利用することができるでしょうか?読んだ本の知識、ネットで調べた口コミ、数値化されたデータ、人の行動パターンを見える化した資料、ファイル化された情報。ついついそれらの引き出しにヒントが隠れているのではないかと頼ってしまいます。でも、何度、見返しても過去のモノしか出てきません、そこに次なるモノはないのです。

 
そこのキミ。実は“学んだこと”ではなく、学びという行為自体にヒントが隠れてるんじゃないかな…。

勘▶未来

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「未来を予測する最善の方法は、それを発明することだ」(1971年/アラン・ケイ)

 
今、私たちが生きている社会は、過去に誰かが描いた未来像が実現化しているだけなのだ。
本当にそうなのでしょうか?
私が25年前に入社した時、会社の上司から「豊かさの時代」と大きく表題のついた業界雑誌をわたされました。
「これから豊かさの時代がくるのだから、時代の流れをよく勉強しとかんといかんゾ。」とハッパをかけられました。その時、自分は豊かさとどう向き合ってゆくのか自問自答してみました。

 
①豊かさとは何かを深く問いたかった。
②デザインで豊かさを伝えたかった。
③デザインを売りまくって豊になりたかった。

 
私は、①を選択しました。
「豊かさとは何かを深く問い続けることが、真の豊かさではないか?」と当時、考えていたことを思い出します。でも②や③を選択している人も世の中には沢山います。どうも社会は、つねに背反する幾つかの方向を生み出してしまいます。自分が正しいと思う未来は、ある人にとってはまったく望まないこともある。理想の未来がひとつではないから厄介なのです。

 
私は私。あなたはあなた。「私は私の美意識を持って生きていきます。」あなたとは相容れません。

 
当時、浅はかな私はそう思っていました。今、思えばそれは大間違いだったと反省しています。「自分が正しい。」と思っていることには、大抵、間違えている部分も常にくっついてきているのです。極端な未来にはリスクがあると思います。白黒ハッキリさせることではなく、美しいグレーな関係を構築する努力が必要なのです。

 
「豊かさとは何かを皆で仮説をつくり、それに共感するモノづくりをして、
労力に見合った収入を獲たら、みんなが幸せになれるよね…。」

 
合理主義・拝金主義・利己主義などグレーで繊細なモノづくりを瞬時に破壊する攻撃から、いかに自分やモノづくりを守ってゆけばよいのでしょうか?
そのためには、自分や自分のつくったものがどういう位置づけにあるのかを常に考えておく必要があります。歴史的な意味付け。社会の中での役割や存在意義、外にたいして価値をどのように与えてゆくのか。そして自分は何を得るのか。

 
そのようなポジショニングを明確にしないまま、フワフワと流されている人にモノづくりの未来を予見することは不可能です。自分が出来ること、役に立ちそうなこと、財産やリソース(資源)を固めてゆくことと、勘(人生や経験や美意識から得られる直感的なもの)を頼りにした未来像を常に心に描いている人がdefinesな人なのです。 そして、definesな人になって初めて“モノづくり”の一コマを進むことができるのです。

 
そこのキミ。キミはどんな未来をみているのでしょうか?

課題▶概念化

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どうもおかしい?こんなはずではなかった。
現場の終焉。全てが評論家。そして虚しい
25年もの間、何をやっていたのだ?

 
今年2013年は、私が美大を卒業し、現場で働き出してちょうど25周年になります。25年もやっていても、なにも成長していないと悔やんでいます。それよりもバブル以後の失われた時代と呼ばれる日々をなんと無駄に過ごしてきてしまったのだろう、と途方もない空虚感に襲われているのが最近のことです。

 
どういうことか?といいますと何も社会の役に立っていない…。社会は悪くなる一方に感じる…。直接的な関わりは無いかもしれませんが、自分がつくってきたモノで大人へと成長してきた人たちが、なんとも酷いことになっている…。大袈裟に言えば、社会の喪失感の形成と環境破壊のために人生を捧げてきたようなものなのです…。

 
何故そのようなことになってしまったか?以前から考えていたことが震災後の様々な出来事で明確になりました。

 
ひとつは、豊かさの意味を取り違えていたこと。
ひとつは、拝金主義・新自由主義といった価値感やシステムに何も抵抗せずに取り組まれていったこと。
ひとつは、じゃぶじゃぶの化石燃料に頼り切った社会構築に疑問すらもたなかったこと。
ひとつは、自分自身、自分と他人、自分と自然といった静かなる対話を切り捨ててきたこと。
ひとつは、つくりだすこと、でなはなく、探しだすこと、に夢中だったこと。

 
私たちは、全てを食い尽くしているのだという想像力がまったく欠如していたことになります。
残りの人生で非力ながら、“あやまち”を認めて、“つぐない”をしたいという一念が心に芽生えてきています。

 
わたしは、モノをつくる人です。正しいモノづくりをすること、そして啓蒙活動が与えられた役目なのだと思います。
未来のことを考えて、モノづくりを定義して、真のモノづくりができる現場をつくりたい。

 
そのためには、現状の酷さに打ち負かされないよう、モノづくりの理想像を再認識する必要があります。
それがdefinesです。

 
definesのモノづくりとはなにか? definesな人はどんな人か?
そこのキミ。definesしてゆきますゾ。